第二章
半歩

昼、ウィラは、壁の根に、下りた。
リーネが、うしろから、ついてきた。外套の袖を、三回まくったまま。粒を握った手を、外套の前に、押しつけて。
小さな屋根の下で、オスカは、今朝と同じ形で、膝をついていた。開いたままの両手で、何もない空を、挟んで。
剣は、その横の石に、立てかけてあった。
ウィラは、オスカの前に、しゃがんだ。
「オスカ」
返事は、なかった。分かっていた。
「…剣、借りるね。孤独の大地に、持ってく。父さんが、どこへ行ったのか、書いてあるかもしれないから」
ウィラは、オスカの顔を、見た。ミラベルと同じ顔だった。ミラベルより、少しだけ、幼く見える顔だった。
「返しに来る。ちゃんと。…だから、ここで、挟んでて」
リーネが、ウィラの袖を、引いた。
『オスカ、いいって?』
「…分かんない」
『じゃあ、あたしが、聞いとく。毎朝』
ウィラは、少し、笑った。今朝から、初めてだった。
剣の柄を、両手で、握った。
持ち上げた。
重かった。
思っていたより、ずっと重かった。ミラベルは、これを、片手で、軽々と、振っていた。オスカは、開いた両手で挟んで、体ごと、突いていた。
ウィラの腕が、震えた。切っ先が、下がって、石の床を、こすった。きいい、と、高い音がした。
『おもい?』
「…おもい」
リーネは、剣とウィラを、見比べた。それから、真面目な顔で、うなずいた。
うしろで、誰かが、鼻を鳴らした。
ガルドだった。
禿げ上がった頭。太い首。顔に、古い切り傷が、三本。右の手首から先が、なかった。左手に、木槌を、提げていた。ゆうべ、オスカの屋根の、最後の釘を打った手だった。
元は帝国の千人隊長で、今は東門の番をしている。昔、この剣で、ミラベルの刃を、折った男だった。右手を失ったのも、その日だった。のちに、左手一本で、この剣を振れるようになって、ミラベルに、渡した。
『持ち方が、違う』
「…ガルドさん」
『その剣は、振りまわすもんじゃ、ない』
ガルドは、木槌を、腰の紐に、差した。
『おれが、それを、左で持ったのは、右を、なくした年だ。…四十年ぶりに、下手なことを、やった』
「どうやって、うまくなったの」
『うまくは、ならん。少し、ましに、なっただけだ。…半年、毎晩、振った』
ウィラは、唇を、噛んだ。
「…半年も、ない。二十六日しか」
『なら、一つだけ、覚えろ』
ガルドは、屋根の柱に立てかけてあった、細い板を、左手で、取った。板の先を、ウィラの胸へ、ゆっくり、突き出した。
『受けるな。…受けたら、重さで、負ける。おまえの腕じゃ、なおさらだ』
板の先が、ウィラの胸に、とん、と、当たった。
『横から、当てろ。刃の腹で、ちょっとだけだ。…逸らしたら、半歩、前へ』
「それだけ?」
『それだけだ。…それしか、おれは、知らん』
ガルドは、もう一度、板を、突き出した。
ウィラは、剣を、横に振ろうとした。重くて、間に合わなかった。板が、また、胸に当たった。
『遅い』
「重いんだもん」
『重いのは、剣のせいじゃない。…両手が、あるからだ』
ウィラは、きょとんとした。
『両手があるやつは、両手で、迷う。右で押すか、左で引くか。…迷ってるあいだに、刃は、来る』
ガルドは、ないほうの右手首を、少し、持ち上げてみせた。
『おれは、迷わんで済んだ。…左しか、ないからな』
ウィラは、剣を、見下ろした。それから、左手を、柄から、少しゆるめた。右手を、柄の根元に、寄せた。押すのは、右だけ。左は、添えるだけ。
板が、来た。
ウィラは、剣を、ほんの少しだけ、横へ、倒した。刃の腹が、板の先に、こつ、と、当たった。板が、胸の横を、すべっていった。
ウィラは、半歩、前へ出た。
ガルドの胸の前に、切っ先が、あった。
ガルドは、しばらく、黙っていた。
『…一回目で、それか』
「当たった?」
『当たった。…ミラベルに、見せてやりたかった』
リーネが、指を、一本、折った。
「いち」
それから、ウィラを見上げた。
「あと、何回?」
『…ぜんぶ』
リーネは、うなずいて、数えはじめた。
日が暮れるまでに、リーネの指は、何度も、足りなくなった。足の指まで、使った。二百を越えたところで、ウィラの腕が、上がらなくなった。
ガルドは、板を、柱に、立てかけた。
「明日も、来い。…ここでだ。オスカの、前でな」
夕方、ロズリンが、納屋に、来た。ケイルを、胸の布に、くるんで。
ウィラは、干し草の上で、両腕を、投げ出していた。手のひらが、赤く、腫れていた。
ロズリンは、ウィラの横に、腰を下ろした。帳面を、膝に、載せた。
『今日、初めて、開きました』
ロズリンは、帳面を、ウィラのほうへ、向けた。
帝国暦三五〇年、春。壁の根で。マーロウ・ケイン、海を、残す。
ウィラは、その一行を、長いこと、見ていた。
「…いなくなった、って、書かないの」
『この人が、したことを、書きます。…ミラベルさんのときと、同じです』
ロズリンは、字の下の、白いところに、指を、置いた。
『どこへ行ったのかは、分かったら、書きます』
「…分かったら?」
『はい。分かったら』
ケイルが、布の中で、むずかった。小さな手が、宙を、掻いた。ウィラが、指を一本、差し出すと、ケイルは、それを、ぎゅっと、つかんだ。
「…つかまれた」
『この子は、つかんだら、離しません』
ロズリンは、少しだけ、笑った。
『誰かさんと、同じです』
夜更け、ウィラは、眠れなかった。
納屋の戸口に、立った。腫れた手で、角笛の紐を、握っていた。
戸口の外に、ベルが、立っていた。いつから、そこにいたのか、分からなかった。
『ウィラ』
「…ベル。寝ないの」
『今夜は、眠れません。…一番は、どんな夜でも、よく、眠っていましたが』
ベルは、ウィラの赤い手のひらを、見た。
『剣を、振るなら、相手が、要ります』
「ガルドさんが、いる」
『ガルドさんは、板で、突きます。…板は、跳びません。消えません』
ベルは、少し、黙った。
『刃は、跳びます。消えたように、動きます。…一番が、そうでした。私も、一番と、同じ作りです』
ウィラは、ベルを、見上げた。
「…ベルが、相手、してくれるの」
『はい。明日から』
ベルは、言いなおした。
『…うん』
機械が止まってから、百六十五日目の夜だった。
第二章 了