海壁

第五章

断つ

挿絵:断つ

『…し』

ベルの腕から、湯気が、噴き上がっていた。

焼けた網は、水路のほうへ、長く、垂れていた。垂れた端が、まだ、水に浸かっていた。網は、水を、吸いつづけていた。吸った水を、ベルの腕が、粒にして、燃やしていた。

このままでは、止まらない。

ウィラは、それだけ、分かった。

受けるな。横から、当てろ。刃の腹で、ちょっとだけ。

ウィラは、半歩、踏みこんだ。

剣を、ベルの腕と、水のあいだに、倒した。右で押す。左は、添えるだけ。

銅の糸が、刃に触れた。

何の手ごたえもなかった。糸は、水を切るように、切れた。水路へ垂れていた網の半分が、ばしゃりと、水に落ちた。

ウィラは、止まらなかった。刃の腹を、ベルの腕に沿わせて、上へ、すべらせた。ベルの腕には、触れないように。錆びない金属でも、この剣は、切ってしまう。

糸が、一本ずつ、はじけた。

焼けた網が、ベルの腕から、ずり落ちた。

『…ご』

ベルの声が、そこで、止まった。

湯気が、細くなった。消えた。

ベルは、自分の両腕を、見下ろした。

『…五で、止まりました』

「ベル!」

『胸が、熱いです。…でも、焼けてはいません』

ウィラは、うしろを、振り返った。屋根の下で、オスカは、何もない空を、挟んだままだった。網の糸は、一本も、届いていなかった。

ウィラは、息を、吐いた。膝が、がくがくした。

「離してって、言ったのに」

『ウィラも、前に、離しませんでした。…嵐の夜に』

ベルの口の端が、少しだけ、上がった。


水路の縁で、ドミニクが、舌打ちをした。

「…取れ」

噛む兵が、五人、同時に、動いた。

青く光る目。もぐもぐと動く口。一人が、床を蹴った。床の石が、割れた。

ウィラは、剣を、構えなおした。

帝都で、噛む兵を止めたのは、名前と、父さんの血だったと、聞いていた。名前を呼んで、一拍、止めて。そこへ、血の指を口に当てて、唾を、粒に変えた、と。

その血は、もう、どこにもない。

『ウィラ』

ガルドが、太い棒を、左手で、構えていた。

『止める手は、ない。…なら、よけさせろ』

「よけさせる?」

『逸らして、半歩だ。…あとは、あいつらの足に、任せろ』

ウィラは、ガルドの目の先を、見た。

水路だった。

水路の水が、ゆっくり、盛り上がっていた。水の中から、白い根が、何十本も、水面に、伸びてきていた。

ヨカだった。

底の主の腹の、三百年ぶんの粒を、水に戻したヨアの子。この広間の棚の粒を、八十年ぶんの半分、食べた子。

「…ヨカ」

一人目が、来た。

拳が、ウィラの顔へ、まっすぐ。

ウィラは、剣の腹を、ほんの少し、倒した。こつ、と、拳の横に、当たった。拳が、耳の横を、すべっていった。

半歩、横へ。

男の体は、止まらなかった。十倍の力で、踏みこんだぶん、止まれなかった。ウィラの横を、まっすぐ、抜けていった。

その先に、水路があった。

どぼん、と、水が、上がった。

白い根が、男に、からみついた。腕に、胸に。それから、根の先が、男の口の中へ、するりと、入った。

男の目の青い光が、ふっと、消えた。

根が、男を、水路の縁へ、押し返した。男は、縁にしがみついて、げほげほと、水を、吐いた。

普通の、人の目だった。

「…いち」

ウィラは、気がつくと、数えていた。

二人目と、三人目が、同時に、来た。

ガルドが、一人を、棒で、横から、はたいた。受けずに、逸らして。男は、よろけて、水路へ、転がりこんだ。

ウィラは、もう一人の蹴りを、剣の腹で、逸らした。半歩。

どぼん。どぼん。

「に。…さん」

四人目は、ベルの足に、引っかかった。ベルは、刃を出さずに、ただ、足を、少し、横に出しただけだった。

「し」

五人目は、水路の前で、立ち止まった。仲間が、根にからまれて、縁で、咳きこんでいるのを、見ていた。

それから、自分から、口の中のものを、床に、吐き出した。

光る粒の、かけらだった。

男は、そのまま、床に、座りこんだ。

「…ご」

ウィラは、剣を、下ろした。腕が、震えていた。

ヨカの根が、床に吐かれた粒のかけらまで、伸びてきた。一つずつ、すくって、水の中へ、持っていった。

ヨカが、ふうっと、ふくらんだ。


水路の縁に、ドミニクだけが、立っていた。

ドミニクは、五人を、見た。それから、ウィラを、見た。剣を、見た。

『刃の、子が』

ドミニクは、両耳の、硝子の耳飾りを、指で、つまんだ。

ぱきん、と、二つとも、握りつぶした。

中の粒を、二つ、口に、放りこんだ。

ドミニクの目が、青く、光った。ほかの五人より、ずっと、強く。

『…剣を、よこせ』

第五章 了