第二十九章
お腹、すいた

七日目の昼、リーネが、壁の上で、角笛を、一回、長く、吹いた。
船だった。
提督の、旗の船。共和国の船だった。東門の前に、ゆっくり、降りた。
梯子を、まっさきに降りてきたのは、禿げた頭の、小柄な男だった。腰に、道具の袋を、いくつも、下げていた。うしろに、弟子が、二人。
トビアス・レンクだった。
トビアスは、門の前のウィラを、見た。それから、ウィラの背中の剣を、見た。
『一〇六番の、娘か』
「ウィラ・ケイン」
『…一〇六番のことは、聞いた。グレゴールから』
トビアスは、禿げた頭を、撫でた。
『一番の炉を、組み替えたのは、おれだ。…あの子が、お腹すいてないって、泣いた日にな』
トビアスは、少し、黙った。
『今度は、逆を、やる。…三番目は、どこだ』
壁の根の広間に、みんなが、集まった。
小さな屋根の下で、オスカは、両手で空を挟んだまま、膝をついていた。五十三日、そのままだった。
ユリウスが、硝子の板の写しを、床に、広げた。トビアスが、それを、しゃがんで、長いこと、見た。
『…二番の、炉か。古い作りだ』
「直せる?」
『直すんじゃない。戻すんだ。…燃やすものを、血から、粒に』
トビアスは、オスカの胸に、指を、当てた。服の上から、骨の継ぎ目を、探った。
『動かせんのだったな。…なら、このまま、やる』
弟子が、灯りを、掲げた。ガルドが、もう一つ、掲げた。
トビアスの指が、オスカの胸の、骨の継ぎ目に、小さな、錆びない金属の蓋を、見つけた。爪の先ほどの、細い溝。
蓋が、開いた。
中に、握りこぶしほどの、炉が、あった。錆びない金属の、小さな炉。内側に、細い線が、何百本も、並んでいた。
冷たかった。
『…焼けてない』
トビアスが、言った。
『きれいなもんだ。燃やすものが、なくなって、止まっただけだ。…ジェロームの言ったとおりだ』
トビアスと、弟子と、ユリウスが、手を、動かした。板の写しの線を、一本ずつ、見ながら。炉の内側の線を、組み替えていった。
最後に、ユリウスが、布の包みを、開いた。錆びない金属の、小さな部品が、三つ。粒の入れ口と、それを留める輪が、二つ。
トビアスが、それを、炉の真ん中に、はめこんだ。かちり、と、小さな音がした。
『…できた』
トビアスは、額の汗を、腕で、拭いた。
『あとは、粒だ』
ウィラは、腰の袋に、手を、やった。
リーネが、先に、手を、出した。握りしめた手のひらを、開いた。
印のない粒が、一つ、のっていた。マーロウの粒。
『これ』
「…だめ」
ウィラは、首を、横に、振った。
「それは、父さんの。…リーネが、持ってるって、約束でしょ」
リーネは、唇を、噛んだ。それから、手を、閉じた。
ベルが、前に、出た。
『私の、粒を』
ベルは、腰の小袋から、粒を、一つ、出した。市場の粒。印のある、普通の粒。
『二番が、毎日、食べている粒です。…三番目にも、同じものを』
ベルは、オスカの前に、膝をついた。粒を、炉の入れ口に、そっと、置いた。
『…どうぞ』
何も、起きなかった。
リーネが、数えはじめた。
「いち。…に。…さん」
広間が、静かだった。ヨカの水路の水が、ゆるく、流れる音だけがした。
「し。…ご。…ろく」
ウィラの手が、震えていた。剣の柄を、握りしめていた。
「なな。…はち」
ガルドが、灯りを、持ったまま、目を、閉じた。
「きゅう」
「…じゅう」
オスカの胸の奥で、小さな音が、した。
ことり、と。
小さな歯車が、一つ、噛み合ったような音だった。
オスカの目に、光が、灯った。
オスカは、まばたきを、した。
両手が、ゆっくり、下りた。五十三日、何もない空を、挟んでいた手が。
『…あれ』
オスカは、自分の胸を、見下ろした。開いたままの指で、胸を、押さえた。
『あったかい』
誰も、声が、出なかった。
オスカは、しばらく、黙っていた。それから、もう一度、胸を、押さえた。
『…お腹、すいた』
トビアスが、禿げた頭を、両手で、覆った。しゃがみこんだ。
逆だ、と、トビアスは、震える声で、呟いた。一番は、お腹すいてないって、泣いた。三番目は、お腹すいたって、言った、と。
リーネが、オスカの前に、飛びついた。
「オスカ!」
オスカは、リーネを、見た。
『…リーネ』
「いいって、言った! オスカ、毎朝、いいって、言ってたもん!」
オスカは、ちょっと、首を、かしげた。それから、開いたままの両手で、リーネの顔を、挟んだ。
『…言ってない。だまってた』
「だまってるのは、いいってこと!」
機械が止まってから、二百十七日目の昼だった。
第二十九章 了