海壁

第十九章

人を守る壁

挿絵:人を守る壁

海壁の街の朝は、いつもと同じに、来た。

リーネは、納屋の戸口で、指を、折った。

「…ひゃく、きゅうじゅう、ご」

一人で、数えた。ウィラが発ってから、毎朝、一人で、数えていた。

それから、壁の根へ、走った。小さな屋根の下のオスカに、訊いた。

「オスカ。…いい?」

オスカは、両手で空を挟んだまま、黙っていた。

「…いいって」

リーネは、うなずいて、壁の階段を、駆け上がった。角笛を、首から、下げて。


壁のいちばん上で、グロムの隣に、立った。

東の空に、黒い点が、見えた。

点は、みるみる、大きくなった。翼が、見えた。

リーネは、角笛を、両手で、持ち上げた。思いきり、息を、吸った。

ぶおおおおーっ。

一回、長く。

グロムが、横で、咳きこんだ。

『リーネ。…あれは、グリフォンだ』

「とり?」

『一回長いのは、船だ。グリフォンは、吹かんでいい』

リーネは、角笛を、下ろした。それから、もう一度、空を、見た。

「…でも、来たよ。何か、来たから、吹いたの」

グロムは、何か言いかけて、やめた。それから、ふっと、口の端を、上げた。

『…そうだな。来たな』

グリフォンが、壁の上に、降りた。額に、布を、巻いていた。

「ロルフ!」

『孤独の大地から、手紙です。…ウィラ殿から』


ロズリンが、納屋の前で、手紙の束を、ほどいた。ケイルを、胸の布に、くるんだまま。

いちばん上に、短い手紙が、一枚、はさんであった。

『リーネへ、と、書いてあります』

「あたし!」

リーネが、ロズリンの膝に、飛びついた。

ロズリンは、ゆっくり、読んだ。

リーネへ。見張り、ありがとう。あたしは、元気。ほっぺを、ちょっと、やけどした。

父さんが、生まれた日の行を、見つけた。父さんの名前は、リーネおばあちゃんが、つけたんだって。

帰ったら、話す。線は、まだ、消さないで。

ウィラ・ケイン。

リーネは、しばらく、黙っていた。

それから、言った。

「…リーネおばあちゃんって、白い石の、となりの、石の人?」

『はい。マーロウさんの、お母さんです』

「あたしの名前と、おんなじ」

『はい。…マーロウさんが、お母さんの名前を、あなたに、あげたんです』

リーネは、自分の手のひらを、見た。マーロウの、印のない粒を、握っている手を。

「おじさんの、名前、つけたのも、リーネ」

リーネは、指を、折った。

「おじさんに、名前つけたのが、リーネ。あたしに、名前つけたのが、おじさん。…じゃあ、こんど、だれかに、名前つけるのは、あたし?」

ロズリンは、答えられなかった。目の端を、指で、押さえた。

ケイルが、布の中で、ふにゃ、と、声を、上げた。

リーネが、のぞきこんだ。

「…チビは、もう、名前、あるもんね」


長い手紙は、ドラグ宛てだった。

ドラグは、納屋の壁にもたれて、黙って、読んだ。一枚。また、一枚。

帝国暦四十八年、秋。西の海に、壁を、建てる。人が、海に、触れないように。…だから、壁を、建てる。人を、守るために。

帝国暦五十九年、春。海壁の名は、変えない。役目を、変える。人を、海から、守る壁ではない。海を、人から、守る壁。…壁の外から戻った者は、東へ、送る。

ドラグは、最後の頁を、読み終えた。

何も、言わなかった。手紙を、たたんで、ロズリンに、渡した。

それから、壁の階段を、上がっていった。


夕方、ロズリンが、壁の上に、上がると、ドラグは、いちばん高いところに、立っていた。

海を、見ていた。大きな手を、壁の縁の石に、置いていた。

ロズリンは、隣に、並んだ。

「十四年、番をした」

ドラグが、言った。

「戻ってきた者を、黒の書に、書いた。丁重に、連れていかせた。…何を守っとるのか、一度も、考えんかった」

『隊長は、書いていました』

ロズリンは、言った。

『書いたから、私が、読めたんです。ガリー・ノーツさんの名前も。…あの畑で』

ドラグは、黙っていた。

『最初は、人を守る壁でした。十二人が、そう書いています』

ドラグは、石に置いた手に、力を、こめた。

「…なら、今日から、また、それだ」

ドラグは、振り向いた。壁の上の兵たちに、怒鳴った。

「聞け! この壁は、人を守る壁だ! 海を守る壁じゃない! …今日から、そうだ!」

壁の兵たちが、顔を、見合わせた。それから、一人ずつ、胸に、拳を、当てた。

グロムが、詰め所から、黒い表紙の帳面を、持ってきた。黒の書だった。最後の頁を、開いて、黙って、差し出した。

ドラグは、黒の書を、受け取った。ロズリンを、見た。

「おまえが、書け。…おれの字は、汚い」

ロズリンは、首を、横に、振った。

『隊長が、書いてください。…隊長の壁です』

ドラグは、しばらく、ペンを、握ったまま、動かなかった。

それから、太い指で、ゆっくり、書いた。

帝国暦三五〇年、春。海壁は、人を守る壁に、戻る。壁の隊長、ドラグ・モーテンセン。

字は、汚かった。でも、まっすぐだった。

ロズリンは、その字を、長いこと、見ていた。それから、ドラグの腕に、自分の腕を、からめた。

『…好きです』

「知っとる」

ドラグは、海を見たまま、言った。耳の先が、赤かった。

壁の下で、リーネが、角笛を、吹いた。

今度は、何の合図でも、なかった。ただ、長く、まっすぐに、鳴った。

機械が止まってから、百九十九日目の夕方だった。

第十九章 了