海壁

第二十章

イーダ

挿絵:イーダ

同じ朝、孤独の大地でも、ウィラが、指を、折っていた。

「…百九十五」

塔の窓の外は、白い塩の平野だった。海壁の街は、ずっと西の、その向こうだった。

リーネも、今ごろ、同じ数を、言っている。ウィラは、そう思った。


塔の裏の炉に、火が、入っていた。

ユリウスが、硝子の板の写しを、炉の横の台に、広げていた。二番の、燃やす所の作り。細い線の絵を、何度も、指でなぞりながら、錆びない金属の小さな板を、削っていた。

ガルドが、その横で、鞴を、踏んでいた。左手一本で、器用に、柄を、押さえていた。

『ガルドさんも、手伝ってるの?』

「楔を削るのと、同じだ。…削るのは、慣れとる」

ユリウスが、額の古い傷を、かいた。

『胸の燃やす所の、粒の入れ口です。一番の作り直しのとき、トビアス殿が外したものを、元に、戻します』

「いつ、できる?」

『あと、五日です。…トビアス殿が、来られるのは、もっと先でしょうが』

ユリウスは、削りかけの小さな板を、灯りに、かざした。

『部品だけでも、先に。…オスカ殿を、待たせたくありませんので』


夜、ウィラは、刃を作った部屋に、一人で、入った。

板が、何百枚も、白く、光っていた。

ウィラは、板の縁の字を、一枚ずつ、読んで歩いた。

一番。帝国暦三四八年。納屋。ミラベル・グリム・ケイン。

ウィラは、指を、当てた。

『愛してる』

ミラベルの声だった。

しばらく、何も、聞こえなかった。干し草の、こすれる音だけがした。

『あれ。返事は』

「…そういうのは、簡単に言うもんじゃない」

父さんの声だった。困った声だった。

『簡単に言ってないもん。二百十年かけて言ってるもん』

『いいよ。待つ。あたし、待つのは得意なの。二百十年やってたから』

ウィラの知らない夜だった。二人きりの、納屋の夜。

ウィラは、板に、手を当てたまま、目を、閉じた。それから、隣の板に、手を、移した。

一番。帝国暦三四八年。年の最後の日。壁の上。ミラベル・グリム・ケイン。

『一回でいいから、坊やの口から聞きたい』

長い、間があった。風の音だけが、していた。

「…好きだ」

「あんたが好きだ。二百十年ぶんまとめて好きだ。これでいいか」

それから、板の中で、何かが、ごろりと、転がる音がした。

『だめ。無理。心臓が止まる。あたし粒で動いてるのに止まる』

「止まるな」

『止まらないけど止まる!』

遠くで、誰かが、吹き出した。

ウィラ自身の、笑い声だった。あの夕方、壁の上で、聞こえないふりをしながら、全部、聞いていた。ニコとミアが、手を叩く音も、した。

ウィラは、板の前に、座りこんだ。

笑いながら、泣いた。


次の日の昼、塔の東の水路に、白い服の人たちが、集まっていた。

ウィラが、行くと、あの女の人が、前に、出てきた。

『名前が、決まりました』

女の人は、言った。それから、少し、迷うような顔をした。

『それから、…私の名前も、思い出しました。マルタ、と、呼ばれていました。小さいころ。…母に』

「マルタさん」

ウィラが、呼ぶと、マルタは、一拍、止まった。それから、少しだけ、笑った。

『ウィラ殿が、読んでくださったでしょう。縦穴の、下の行を。…ジェローム殿が、私たちにも、話してくださいました』

マルタは、水路の中の、白い、柔らかいものを、見下ろした。

『蓋の上で、麦を育てて、水が戻るのを、待っていた人がいた、と。…背中を壁につけて、待っていた人が』

「…イーダさん」

『はい』

マルタは、水路の縁に、膝をついた。白い根に、そっと、指先を、近づけた。触れないように。

『この子は、粒を、水に、返す子です。…その人が待っていた水を、返す子です』

マルタは、ウィラを、見上げた。

『イーダ、と、呼んでも、いいでしょうか』

ウィラは、すぐには、答えられなかった。

喉が、詰まった。

「…いい」

やっと、言った。

「すごく、いい」

白い服の人たちが、一人ずつ、水路に向かって、呼んだ。

イーダ。イーダ。

白い根が、ゆらりと、揺れた。

ウィラは、帳面を、開いた。

ヨアの子。孤独の大地の、塔の東の水路。名前、イーダ。命名者、マルタと、白い服の人たち。

書き終えて、ウィラは、言った。

「イーダさん。…水、返すからね。この子が」

機械が止まってから、二百日目の昼だった。

第二十章 了