海壁

第二十七章

おかえり

挿絵:おかえり

三日たった昼、海壁の街の壁が、見えた。

灰色の、長い、壁。その向こうに、海。

ウィラは、船べりから、身を乗り出した。

壁のいちばん上に、小さな影が、立っていた。首から、大きな角笛を、下げて。

影が、角笛を、両手で、持ち上げた。

ぶおおおおーっ。

一回、長く。

今度は、途中で、裏返らなかった。

「…船だ、って」

ウィラは、笑った。笑いながら、目の奥が、熱くなった。

「合ってるよ。リーネ。…ちゃんと、船だよ」


東門の前に、船が、降りた。

梯子を、半分まで降りたところで、何かが、ウィラの腰に、ぶつかってきた。

リーネだった。

角笛を、首から下げたまま、両腕で、ウィラの腰に、しがみついていた。

『…おかえり』

くぐもった声だった。顔を、ウィラの外套に、押しつけていた。

「ただいま」

『おそい』

「ごめん」

『ほっぺ、やけど、どこ』

ウィラは、しゃがんだ。リーネの顔の高さに、頬を、向けた。

リーネは、ウィラの頬を、両手で、挟んだ。じっと、見た。

『…もう、ない』

「サイラスさんが、跡は残らないって、言ったの」

『サイラス、えらい』

リーネは、ウィラの頬を、挟んだまま、離さなかった。

門の前に、みんなが、いた。ドラグ。ケイルを抱いたロズリン。ガスとオットとサム。ニムと、ヴェスタ。グロム。ミアと、ミラ。

ドラグが、のしのしと、歩いてきた。ウィラの前に、立った。

黙って、大きな手を、ウィラの頭に、置いた。

「…二度目だ」

『数えてるの?』

「数えとらん」

ドラグは、手を、どけた。耳の先が、赤かった。


夕方、ウィラは、リーネと二人で、禁止区のいちばん南の岩へ、行った。

石が、二つ、並んでいた。

名前を彫っていない、リーネ・ケインの石。

その隣の、白い石。ミラベル・グリム・ケイン。数えるのが、うるさい。

石の前に、ニムの干し杏が、一つ、置いてあった。リーネが、毎日、置いていた。

ウィラは、首の袋から、硝子の瓶を、出した。

「リーネ。…これ」

リーネは、瓶を、両手で、受け取った。中で、澄んだ水が、揺れた。

「孤独の大地の、ヨアの子の水。イーダって、名前になったの。…粒を、一つ、水に戻した水」

リーネは、瓶を、夕日に、かざした。

『しょっぱい?』

「しょっぱくない。井戸の水と、おんなじ」

リーネは、しばらく、瓶を、見ていた。

それから、白い石の前に、しゃがんだ。ミラベルの石の。

瓶の口を、開けた。

『ねえちゃん。…水、戻ったよ』

リーネは、水を、少しだけ、石に、かけた。それから、隣の石にも、少しだけ。

『リーネおばあちゃんにも』

それから、残りを、瓶の中に、取っておいた。

『あとは、とっとく。…オスカにも、見せる。あした』

ウィラは、リーネの横に、座った。背中を、岩に、つけて。膝を、抱えずに。

リーネも、隣で、同じように、座った。


「リーネ。…話が、ある」

日が、沈みかけていた。

ウィラは、窪地の底で、ドンとニコに会ったことを、話した。ドンが、トンが、コンが、孤独の大地へ、向かっていること。粒の山を、水に戻そうとしていること。

それから、山の、下のことを。

「心臓の部屋の、いちばん下の床の、もっと下に、一人、閉じこめられてるんだって。三百年も。…ずっと、呼んでるのに、誰にも、聞こえないんだって」

『なんで、聞こえないの』

「名前が、ないから。…呼んでも、誰の声か、分からないんだって」

リーネは、黙っていた。

干し杏を、見ていた。白い石の、字を、見ていた。数えるのが、うるさい。

それから、言った。

『…あたしが、つける』

ウィラは、リーネを、見た。

リーネは、まっすぐ、前を、見ていた。

『おじさんに、名前つけたのが、リーネおばあちゃん。あたしに、名前つけたのが、おじさん』

リーネは、指を、折った。一本。二本。

『こんどは、あたしの、番』

機械が止まってから、二百九日目の夕方だった。

第二十七章 了