海壁

第十章

名前の欄

挿絵:名前の欄

朝、ウィラは、塔の窓の前で、指を、折った。

「…百九十一」

海壁の街では、今ごろ、リーネが、納屋の戸口で、同じ数を、言っているはずだった。

ウィラは、帳面に、その数を、書いた。


縦穴へ下りるのは、五人と決めた。

ウィラ。読む役のサイラス。ジェローム。ベル。ガルド。

ユリウスは、穴の縁で、綱の番。グレゴールとロルフは、塔の外で、空の番。セラフィナとエステルは、塔の下の丸い部屋に、残った。

下りる前に、エステルが、ウィラの前に、来た。両手で、小さな硝子の灯りを、持っていた。中で、粒が一つ、光っていた。

『これ。…貸してあげる』

「エステルの、大事なやつでしょ」

『下、暗いから』

エステルは、灯りを、ウィラの手に、押しつけた。

『暗いの、こわいでしょ。…あたしは、おかあさまが、いるから、平気』

セラフィナが、娘のうしろで、少しだけ、目を細めた。

ウィラは、灯りを、腰の紐に、下げた。

「帰ってきたら、返す」


細い道は、人ひとりぶんの幅だった。手すりは、なかった。

壁の板の字は、一周ごとに、年が、変わった。一周の最初の板に、大きく、年が、刻んであった。

帝国暦三四〇年。帝国暦三三〇年。

「一周で、十年」

ウィラは、数えはじめた。気がつくと、数えていた。

一周目の途中で、サイラスが、足を、止めた。

帝国暦三四八年。一〇六番、海壁の街で、海の水を、浴びる。

「…船が、落ちた日だ」

ウィラは、その行を、しばらく、見ていた。

輸送船が、壁の外に落ちた日。父さんが、初めて、海をかぶった日。ウィラが、父さんと、東へ行った年だった。


「サイラスさん。探してほしい行が、ある」

三周目で、ウィラは、言った。

「帝国暦三一九年。…父さんが、生まれた年」

サイラスは、眼鏡を、押し上げた。

『何を、お知りになりたいのですか』

「リーネおばあちゃんが、言ってた。お腹に父さんがいるときに、本部から、歩いて逃げたって。…本部は、追ってこなかった、って。なんでかは、今でも、分からない、って」

ウィラは、灯りを、握った。

「あたし、それ、聞いてたの。すぐ横で」

サイラスは、黙って、下へ、歩いた。

四周目に入ってすぐ、止まった。板を、指で、なぞった。

それから、読んだ。

帝国暦三一八年、冬。百六番目の材料を、リーネ・ケインに、宿す。桶の代わりに。

帝国暦三一九年、春。リーネ・ケイン、歩いて、出ていく。

追わない。

人の腹から出た者が、人の手で育てられたら、何になるのか。私には、計算が、できない。

計算できないものは、見るしかない。

計算できないと書くのは、これが、初めてです。

サイラスは、そこで、息を、ついだ。次の行に、指を、移した。

帝国暦三一九年、夏。海壁の街。一〇六番、生まれる。

母は、名前を、つけた。マーロウ。

台帳の、名前の欄には、書かない。名前は、計算に、要らない。

母の体に、材料が、残った。母は、今日から、歳を、取らない。

縦穴の中が、しんとした。

ウィラは、板を、見ていた。マーロウ、と刻まれた、その字を。

「…知ってたんだ」

声が、震えた。

「最初から、父さんの名前、知ってたんだ。…書かなかっただけで」

ジェロームが、低く、言った。

『一〇六番が、初めて孤独の大地に来たとき、服は、寸法どおりに、仕立ててありました』

ジェロームは、眼鏡を、外した。

『台帳には、名前の欄のほかは、全部、ありました。背の高さも、足の大きさも。…見ていたのです。三十年、ずっと』

「追ってこなかったのは、見てたから」

『はい』

ウィラは、唇を、噛んだ。

リーネおばあちゃんは、また、会えてから、十四日しか、父さんと一緒にいられなかった。分からないまま、いなくなった。

ウィラは、腰の帳面を、開いた。ペンを、とった。

しゃがんで、膝の上で、書いた。字は、曲がった。

帝国暦三一九年、夏。海壁の街。マーロウ・ケイン、生まれる。名前をつけた人、リーネ・ケイン。

書き終えて、ウィラは、板を、見上げた。

「本部が、書かなかったとこ。…あたしが、書いた」

ベルが、ウィラの横に、しゃがんだ。帳面の字を、のぞきこんだ。

『名前の欄が、一つ、埋まりました』

「一つだけ、だけどね」

『一つ目が、いちばん、大事です。…一番が、そう言っていました』

ガルドが、少し離れて、壁に、背中をつけていた。何も、言わなかった。ただ、ふん、と、鼻を鳴らした。


そこから、また、下った。

帝国暦三〇〇年。二九〇年。二〇〇年。帝国暦百年。

灯りの届かないところは、真っ暗だった。エステルの灯りが、ウィラの足もとだけを、照らしていた。

九十年。八十年。

ウィラは、数えつづけた。

「…にじゅう、きゅう。…さんじゅう」

三十周目の途中で、サイラスが、また、止まった。

今度は、読まなかった。灯りを、板に、近づけたまま、動かなかった。

「サイラスさん?」

『…字が、変わりました』

サイラスは、上の板と、下の板を、見比べた。

上の板の字は、どれも、同じ大きさで、同じ深さで、まっすぐ、並んでいた。

下の板の字は、ちがった。大きさが、そろっていなかった。ところどころ、曲がっていた。深く刻んだ字と、浅い字が、混じっていた。

『ここから下は、本部の字では、ありません』

サイラスは、言った。

『…人の、字です』

機械が止まってから、百九十五日目の昼だった。

第十章 了