第二十六章
窪地の底

灰色の船は、朝に、孤独の大地を、発った。
グレイの兵が五人、帆についていた。乗っているのは、ウィラと、ベルと、ガルドと、ユリウス。上を、ロルフのグリフォンが、飛んでいた。
ウィラは、ユリウスの部品の包みと、イーダの水の瓶を、首の袋の横に、下げていた。
二日目の夜だった。
月が、明るかった。
船は、大きな窪地の上を、渡っていた。東の大窪地。三百年前まで、海だった場所。深さは数百メートル。向こう岸が、月の光の中で、かすんでいた。
ウィラは、船べりから、下を、見た。
窪地の底に、黒い影が、点々と、あった。船だった。昔の、海の上を走っていた船。
二年前、父さんと、この窪地の縁を、荷車で、歩いた。底に、二十三隻、見えた。
ベルが、ウィラの横に、来た。
『ウィラ。…底に、光が、あります』
ウィラは、目を、凝らした。
窪地の底の、沈んだ船の間を、何かが、動いていた。
光っていた。
人の形をしていた。頭も、顔も、なかった。光る水が、人の形をして、窪地の底を、東へ、歩いていた。一歩ごとに、乾いた底が、黒く、濡れた。
「…ドン?」
ウィラの声が、震えた。
「ドンだ!」
船が、高さを、下げた。
ドンは、足を、止めた。光る水の体が、ゆっくりと、こちらを、向いた。
ドンの、片方の手のひらが、胸の高さに、上げられていた。その上に、小さな舟が、一艘、載っていた。海壁の街の、浜の舟だった。
舟の中から、誰かが、手を、振った。
『ウィラー!』
「ニコ!?」
ニコだった。舟のへりから、身を乗り出して、両手を、ぶんぶんと、振っていた。
船が、ドンの手のひらの、すぐ横まで、下りた。ウィラは、船べりに、しがみついた。
「なんで、ここにいるの!」
『ドンが、行くって、言ったから!』
ニコは、叫んだ。
『ぼくも、行くって、言ったの! ドラグが、行けって! ロズリンが、筒を、十本、くれた!』
ニコは、腰の袋を、叩いた。深い水の筒の、硝子が、鳴った。
『舟に乗ってれば、濡れないでしょ。…ドンが、考えたんだよ。ぼくが、濡れないように』
ウィラは、ドンを、見上げた。光る水の体。胸のあたりが、ゆっくり、明るくなったり、暗くなったりしていた。
「…どこへ、行くの」
『孤独の大地』
ニコは、まっすぐに、言った。
『十日あまり前から、ドンが、痛いって、言ってた。東のほうから、粒の、においがするって。…山みたいに、いっぱい』
ウィラの胸が、どきりと、鳴った。
心臓の部屋の戸を、開けた日。
『トンも、行くって。コンも。…地面の下で、叩いて、話してるんだって。みんな、そこへ、行くって』
「みんなで、何を、するの」
ニコは、ドンの手のひらに、自分の手のひらを、当てた。舟のへりから、身を乗り出して。濡れないように、そっと、近づけるだけ。
しばらく、黙っていた。
それから、言った。
『水に、戻すって。…あの山を、全部』
ウィラは、首の袋を、握った。
「待って。…それ、みんなで、決めるの。二十七日後に。グレイ将軍も、議長も、海壁の街の人も、みんなで」
ニコは、ドンを、見上げた。
ドンの胸の光が、ゆっくり、揺れた。
『…待つって』
ニコが、言った。
『二十七日なら、待つって。ドンは、待つのは、慣れてるから』
ウィラは、息を、吐いた。
それから、ニコの顔が、少し、曇った。
『でも』
ニコは、もう一度、ドンの手のひらに、自分の手を、近づけた。
『でもね、ドンが、言ってる。…山の、下に、もう一人、いるって』
「山の、下?」
『心臓の部屋の、いちばん下の、床の、もっと下。…水の中に、閉じこめられてるのが、一人』
ベルが、ウィラの横で、動かなくなった。
底の床。錆びない金属の、平らな、丸い床。いちばん古い板が、埋めこまれていた床。
『ずっと、呼んでるんだって。三百年。…でも、誰にも、聞こえなかったんだって』
ニコの声が、小さくなった。
『名前が、ないから。…呼んでも、誰の声か、分からないんだって』
機械が止まってから、二百七日目の夜だった。
第二十六章 了