
第一章
百六十一

朝の光が、壁の根の水路に、差しこんでいた。
ウィラは、もう、叫んでいなかった。水路の縁に、座りこんでいた。声が、出なくなっていた。
リーネが、その横に、立っていた。小さな両手で、粒を一つ、包んでいた。
『…おじさんは?』
ウィラは、リーネを、見上げた。
何か、言わなければならなかった。何も、出てこなかった。
ウィラは、リーネを、抱きよせた。リーネの外套の袖は、三回まくったままだった。
「…いなくなった」
『どこに』
ウィラは、答えられなかった。
街じゅうの人が、壁の根に、下りてきた。
ドラグが、ケイルを抱いたロズリンと。ガスと、オットと、サム。ニム。ヴェスタ。ガルド。グロム。ミアとミラ。セラフィナと、エステル。ニコ。グレゴールとロルフ。村の長。
誰も、何も、言わなかった。
水路の縁で、オスカが、膝をついていた。開いたままの両手を、胸の前で、左右から、合わせて。何もない空を、挟んだまま。目の光は、消えていた。
ベルが、オスカの横に、しゃがんだ。オスカの胸に、耳を、当てた。
長いこと、そうしていた。
「…音が、しません」
ベルは、オスカの手を、そっと、開こうとした。開かなかった。金属の指は、挟んだ形のまま、動かなかった。
ロズリンが、ウィラの横に、来た。ケイルを、ドラグに預けて。
『エリスさんも、分からない、と、書いていました。…その先のことは、と』
「うん」
『ですから、私も、書けません。…どこへ行ったのかは』
ロズリンは、帳面を、胸に抱いていた。開かなかった。
昼過ぎ、ベルが、杭の列から、戻ってきた。
走っては、いなかった。けれど、いつもより、足が速かった。
『減っていません』
ベルは、ウィラと、リーネの前で、止まった。
『今朝から、指の関節、半分も、減っていません。…波打ち際の粒も、もう、打ち上がってきません』
リーネが、ベルを、見上げた。
「…それ、いいこと?」
ベルは、少しだけ、黙った。
『海は、残りました』
それから、言いなおした。
『一〇六番が、残しました』
浜のほうから、ニコが、上がってきた。濡れた手を、外套で、拭きながら。
「ドンが、痛くなくなったって」
ニコの声は、小さかった。
「…それから、ありがとう、って。あの人に、言っといて、って」
誰も、答えられなかった。
夕方、ドラグとガルドが、板を運んできた。
オスカを、動かすことは、できなかった。水路の縁の石に、膝が、根を張ったように、重かった。
だから、その上に、屋根を、かけた。四本の柱と、板を何枚か。雨が、オスカの手に、落ちないように。
ガルドが、左手だけで、最後の釘を、打った。
『名前のない剣は、どうする』
剣は、オスカの横の石に、立てかけられたままだった。
ドラグが、それを、見下ろした。
「…ここに、置いとけ。あいつの、横に」
夜、リーネは、納屋の干し草の上で、粒を握ったまま、眠った。
板壁には、春までの六十本の線が、全部、斜めに消してあった。その下に、新しい線が、一本。リーネが、自分で刻んだ線。つぎの たんじょうびまで。
その下に、曲がった字。リーネ・グリム・ケイン。かぞえるのが、うるさい。
ウィラは、その字を、指で、なぞった。
それから、リーネの横に、横になった。眠れなかった。
夜が、明けた。
リーネが、先に、起きた。干し草から這い出して、納屋の戸口に、立った。
毎朝、そこで、一滴が、落ちていた。おはよう、オスカ、と、言う声がした。
今朝は、誰も、いなかった。
リーネは、戸口に立ったまま、しばらく、動かなかった。
それから、小さな指を、折った。
『…ひゃく、ろくじゅう、いち』
ウィラが、うしろで、起き上がっていた。
百六十一からは、おまえらが、数えろ。
ウィラは、リーネの横に、並んだ。
「…百六十一」
二人の声が、朝の中に、消えた。
ベルが、納屋の前に、立っていた。いつから、そこにいたのか、分からなかった。
『ウィラ』
「…なに」
『分からないことを、調べる場所が、一つだけ、あります』
ベルの声は、いつもの平らな声だった。平らにしようとしている声だった。
『孤独の大地の、本部の、心臓の部屋です。…止まった日に、閉じたままの戸の奥に、本部が三百四十年、書いたものが、全部、あります。機械が動いていたころ、本部が、毎朝の報せの返事で、一度だけ、そう言いました』
ベルは、壁の根のほうを、見た。
『この系統を、なぜ、どうやって作ったのか。…この世界が、なぜ、こうなったのか。それも』
「…戸は」
『錆びない金属です。開けられるのは、名前のない剣だけです』
ウィラは、壁の根の、小さな屋根のほうを、見た。
屋根の下で、オスカが、何もない空を、挟んでいた。その横に、剣が、立てかけてあった。
ウィラは、自分の手を、見下ろした。
三か月が明けるまで、あと、二十六日だった。
機械が止まってから、百六十五日目の朝だった。
第一章 了