海壁

第三十三章

ドン

挿絵:ドン

光る水の体が、壁の前の海に、立っていた。

春に、南へ去っていったときと、同じ高さだった。頭も、顔も、なかった。ただ、光る水が、人の形をして、そこにいた。

三十隻の羽根が、一瞬、止まった。

それから、何隻かが、水の体へ、羽根を向けた。

しゅっ。

見えない刃が、水の体に、吸いこまれた。水が、少し揺れて、元に戻った。それだけだった。

大砲が、火を噴いた。弾が、水の体の胸に当たって、そのまま、海へ、ぽとりと落ちた。

水の体は、動かなかった。壁の前に、立っているだけだった。

壁の前に、もう一枚、壁が立ったようだった。

浜の帝国の兵たちが、舟へ、走って戻りはじめた。誰も、命令していなかった。

『ドン!』

ニコが、壁の上で、手を振っていた。

『来てくれた! ドン! 海が戻ったら、来るって、言ったもんね!』

水の体の、胸のあたりが、ゆっくり、明るくなった。


大きな船から、拡声の筒の声がした。

「撃ち方、やめ」

グレイの声だった。

空の羽根の音が、止んだ。騎兵が、船のまわりに、引き返していった。

ヴァルターが、グレゴールのグリフォンのうしろに、乗っていた。胸に、封をした手紙を、一通、抱えて。

『行ってくる。…陛下の、字だ』

ヴァルターは、セラフィナを見た。セラフィナが、包帯の手で、うなずいた。

グリフォンは、光る水の体の横をすり抜けて、大きな船の甲板へ、降りていった。


昼過ぎ、大きな船から、小さな舟が一艘、降りてきた。乗っているのは、二人だけ。ヴァルターと、白髪の、背の高い男だった。

グレイは、壁の階段を、一人で上がってきた。剣は、持っていなかった。

マーロウの前で、足を止めた。手に、セラフィナの手紙を、持っていた。

『陛下の、字だ』

グレイは、言った。

『名代が書いたのは、分かっている。…だが、陛下の字だ。陛下の口ぶりだ』

グレイは、手紙を開いて、一行だけ、声に出して読んだ。

『グレイ。あんたは、悪くない。…でも、あの子の血は、あの子のもんだ』

グレイは、手紙を、たたんだ。

『わしは、十年後の灯りのために、来た。陛下のいない帝国を、暗くしたくなかった。…だが、陛下の字には、逆らえん』

「帰るのか」

『帰る。三十隻、全部』

グレイは、海の、光る水の体を、見た。

『あれとは、戦えん。…戦う気も、失せた』

それから、グレイは、マーロウの目を、まっすぐ見た。

『だが、一〇六番。覚えておけ』

低い声だった。脅しでは、なかった。

『鍵がある限り、次が来る。わしが帰っても、十の家の長は、別の将軍を立てる。港は、別の船を買う。共和国にも、別の四人が出る。十年後も。百年後も』

グレイは、目を、そらさなかった。

『わしには、それを、止められん。…誰にも、止められん』

マーロウは、黙っていた。

それから、言った。

「…分かってる」

グレイは、ドラグのほうを向いた。

『おまえを、この壁の隊長にしたのは、わしだ』

「知っとる」

『…正しかった』

グレイは、それだけ言って、壁の階段を、降りていった。

夕方、三十隻の光の柱が、一本ずつ、空へ引き上げられていった。船は、東へ、小さくなっていった。


光る水の体は、まだ、海に立っていた。

ガスが、壁の、海側の縁に、走っていった。三本の指で、石の縁を、握りしめた。

『ドン!』

ガスの声が、裏返っていた。

『ありがとうよぉ! 春に、言えなかった! 礼は、いらねえって言われたけどよ! 言うからな! ありがとうよぉ!』

水の体が、ゆっくり、身をかがめた。

光る手が、浜の北の端に、そっと降りた。草が三本、生えていたところに。

手が、離れた。

浜が、緑になっていた。三本だった草が、手のひらの形に、広く、柔らかく、生えそろっていた。

ガスは、壁の縁にしがみついたまま、声を上げて、泣いた。オットとサムが、両側から、ガスの肩を抱えた。

ウィラが、樽屋の蔵から、走ってきた。エマの綱を、引いて。

エマは、浜の草を見ると、綱を引っぱって、壁の階段を、駆け下りようとした。

「エマ! 待って! …食べていいから!」


夜、壁の上で、ミラベルは、マーロウの肩に、頭をのせていた。

沖で、光る水の体が、静かに、光っていた。

『勝ったね』

「ああ」

『ドン、まだ、光ってる』

「ああ」

ミラベルは、マーロウの手を、両手で、包んだ。

『坊やの心臓、今日、いっぱい、動いた。…ずっと、聞いてた』

「うるさかったか」

『ううん。いちばん、いい音』

沖の光が、二人の顔を、ぼんやり照らしていた。

機械が止まってから、六十五日目の夜だった。

第三十三章 了

第十巻 了

第十巻の終わり 人物相関図
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