海壁

第二十九章

いちばん、いっぱいあった日

挿絵:いちばん、いっぱいあった日

十日が過ぎた。

朝、納屋の戸口で、ミラベルが、鉤で、マーロウの左の人差し指を、ちょんと突いた。一滴を、自分の唇に。もう一滴を、オスカの唇に。

布で、指を押さえた。布は、ベルが待っている焚き火へ。

『おはよう、ミラベル』

「おはよう、オスカ」

オスカが行ってしまうと、ミラベルは、くるりと背中を向けた。

マーロウは、何も言わずに、うしろから、ミラベルを抱いた。

『…五十』

「数えてるじゃないか」

『心の中で、数えてるの。…今日は、口から出ちゃった』


杭の列から、ベルが、歩いて戻ってきた。

走ってはいなかった。けれど、歩き方が、いつもより、少しだけ、速かった。

『海は、今朝も、増えました』

「うん」

『それから』

ベルは、壁の外の、北の端を、指さした。

『浜に、草が、生えました。北の端の、湿った砂のところに。…指一本の、高さです』

ミラベルが、ベルの顔を見た。

「草?」

『はい。三本。…数えました』

ミラベルは、ベルの手を引いて、壁の階段を、駆け下りていった。


北の端の浜は、乾いた底だったところが、湿った砂になっていた。

その砂の中から、細い、緑のものが、三本、突き出していた。指一本の高さ。風に、少しだけ、揺れていた。

ウィラが、エマを連れてきた。

エマは、草の前で、鼻をひくひくさせた。それから、草の匂いを、長いこと嗅いでいた。食べなかった。

「エマ、食べないの?」

ウィラが、しゃがんで、エマの首を撫でた。

「…そっか。まだ、三本だもんね。もっと、生えてから」

ガスが、うしろから、覗きこんでいた。三本の指で、自分の頭を、がしがし掻いた。

『ドンのやつ、来る前に、生えちまったじゃねえか』

「来たら、見せればいいよ。ガスさんが、生やしたんじゃないって、言えばいい」

『言うかよ。おれが生やしたことにする』

ウィラが、笑った。エマが、ウィラの頬を、べろりと舐めた。


昼、ニムの店の前で、二人は、杏を食べていた。

秋の杏は、夏のより、少しだけ、甘かった。

ニムが、店の奥から、椅子を二つ、持ってきた。

『座れ。店先で何もしない客には、椅子を出すことにした』

「いつからだ」

『今日からだ。…いい客だからな』

向かいの路地で、オスカとミラが、並んで座っていた。ミラの木の手と、オスカの開いた手が、一つの椀を、両側から挟んでいた。二人で、一つの椀から、水を飲もうとしていた。

こぼれた。

二人は、同じ顔で、顔を見合わせて、笑った。


夕方、壁の根に降りると、ヨカは、水路いっぱいに、ゆったりと浮かんでいた。棚の粒は、半分が、空になっていた。

オスカが、水路の縁に座って、ヨカの根の一本を、開いた手のひらに、そっと乗せていた。

「ヨカ。…今日、草が、生えたよ」

白い体が、ふうっと、ふくらんだ。


日が沈むと、マーロウとミラベルは、壁の上に座った。

海が、壁のすぐ近くまで、来ていた。春に杭を打ちはじめたころより、少し手前。それでも、乾いた底は、もう、どこにも見えなかった。

『坊や』

「何だ」

『今日、何したか、言っていい?』

「言え」

ミラベルは、指を折りはじめた。

『朝、一滴。うしろから、ぎゅってされた。五十。ベルが、草を見つけた。三本。エマが、食べなかった。ガスが、自分が生やしたことにした。ニムが、椅子を出してくれた。オスカとミラが、水をこぼした。ヨカに、草のこと、言った』

指が、足りなくなった。ミラベルは、マーロウの指も、勝手に折りはじめた。

『それから、今。坊やの横』

「…何もない日だったな」

『うん。何もない日。…いちばん、いっぱいあった』

ミラベルは、マーロウの肩に、頭をのせた。

『好き。…明日も、こういう日がいい』

マーロウは、海を見ていた。月が、水の上に、長く映っていた。

「なら、明日も、何もしないでいるか」

ミラベルは、マーロウの肩の上で、小さく、くすくす笑った。

機械が止まってから、五十四日目の夜だった。

第二十九章 了