海壁

第二十三章

氷の口

挿絵:氷の口

北へ飛ぶにつれて、下の地面が、白くなっていった。

はじめは、岩の窪みに、白いものが少し。それから、丘の陰が、白く。昼過ぎには、見わたすかぎり、白かった。

ミラベルが、甲板の手すりから、身を乗り出していた。

『白い! 全部、白い!』

「雪だ」

『知ってる。…知ってるけど、こんなにあるの、初めて見た』

空から、白いものが、ちらちらと降ってきた。オスカが、開いた両手を、上に向けた。手のひらに落ちた雪は、すぐに、水になって消えた。

「雪は、雨と同じだ。何も通ってない水だ。刃に触っても、粒にはならない。…すぐ、溶ける」

『…消えた。でも、つめたかった』

オスカは、それでも、しばらく、手のひらを上に向けたまま、立っていた。

マーロウが、くしゃみをした。

ミラベルが、振り向いた。それから、自分の外套を脱いで、マーロウに巻きつけた。

「おまえは」

『あたし、寒くないもん。坊やは、寒いでしょ。心臓、ちゃんと動かして』

「動いてる」

『知ってる。…聞いてるから』


翌日の昼、グレゴールのグリフォンが、船の横に、並んで飛んできた。

『見えました! 前に、そりが一台。犬が八頭。人が、二人』

その先の、白い平らな氷の上に、黒い、丸いものがあった。

穴だった。井戸のように、まっすぐ、氷を貫いていた。船の上から見ても、底が見えなかった。

氷の口だった。

そりは、その穴に向かって、まっすぐ走っていた。荷台に、樽が一つ。

『あと、少しで、着きます!』

「船を降ろせ!」

船長が、舵を切った。けれど、船が氷に届く前に、ミラベルは、もう、手すりを蹴っていた。


ミラベルは、氷の上に降りて、走った。

雪を、一歩も滑らせなかった。そりとの間が、見る見る縮んだ。

そりの上の男が、振り向いた。ミラベルを見て、顔色を変えた。それから、樽を、両腕で抱え上げた。

グレゴールのグリフォンが、そりの上に、急降下した。ロルフのグリフォンが、犬の前に回りこんだ。犬たちが、悲鳴を上げて、止まった。

そりが、横倒しになった。

男は、樽を抱えたまま、氷の上を転がって、穴の縁にたどり着いた。

ミラベルが、あと十歩。

男は、樽を、穴の中へ、放りこんだ。

ミラベルが、穴の縁に、滑りこんだ。手を伸ばした。指の先で、樽の縁が、落ちていった。

暗い水面に、樽が、音もなく、沈んだ。

『やだっ!』

ミラベルが、穴に飛びこもうとして、身をかがめた。

「入るな!」

マーロウの声だった。船を降りて、氷の上を、走ってきていた。

ミラベルは、穴の縁で、止まった。

ミラベルは、穴の縁に、膝をついたまま、暗い水面を見ていた。

『坊やの血…落ちちゃった。…あと、ちょっとだったのに』

マーロウが、横に、膝をついた。

「おまえのせいじゃない」

うしろで、ロルフが、そりの男の腕を、ねじり上げていた。

『誰に言われた』

「て、手入れ係に。…氷の口に落とせば、もう、誰にも、取れないって」


そのとき、氷が、鳴った。

低く、長く。足の裏から、骨まで響くような音だった。

穴のまわりの氷に、ひびが、放射状に走った。

穴の中の、暗い水が、盛り上がった。

水が、形になった。白い、腕だった。水と、氷でできた腕。港の船より、大きな手のひら。

その手のひらの上に、さっき沈んだ樽が、載っていた。

誰も、動けなかった。

白い手は、樽を載せたまま、氷の上に、じっと、止まっていた。

手の表面が、細かく、震えていた。一定の、間隔で。とん、とん、と、何かを叩くように。

オスカが、開いた両手を、胸の前で、握れないまま、合わせていた。

『…叩いてる』

「何を」

『分からない。…でも、ニコの、トンみたいに、叩いてる』

白い手は、しばらく、そうしていた。

それから、樽を載せたまま、ゆっくりと、穴の中へ、沈んでいった。

暗い水面が、閉じた。氷のひびだけが、残った。

機械が止まってから、三十三日目の昼だった。

第二十三章 了