海壁

第二十四章

白い手

挿絵:白い手

氷のひびの上に、みんなが立ちつくしていた。

穴の水面は、閉じたままだった。ときどき、下のほうで、低い音がした。氷が、足の裏で、かすかに震えた。

グレゴールが、グリフォンの手綱を握ったまま、言った。

『…樽を、持っていきました』

「ああ」

マーロウは、穴の縁に、しゃがんだ。暗い水の中を、覗きこんだ。何も、見えなかった。

「樽の中の点が、水に出たら、この海が、粒になる。一刻に十二粒。…何百年かかっても、止まらない」

ミラベルが、穴の縁で、膝を抱えていた。

『あたしが、あと十歩、早かったら』

「言うな」

そりの男たちは、ロルフに縛られて、犬のそばに座らされていた。手入れ係に言われて運んだだけだ、と、二人とも、何度も言った。誰も、それを責めなかった。責めても、樽は、上がってこなかった。


オスカは、ひびの走った氷の上に、膝をついていた。

開いたままの両手を、氷の上に、ぴたりと置いていた。

「オスカ?」

『…まだ、叩いてる。下で』

オスカは、目を閉じていた。

『とん、とん。…とん。とん、とん。ずっと、同じ』

ミラベルが、オスカの横に、しゃがんだ。

「ニコが、トンと話すとき、叩き返してた」

『うん』

オスカは、開いた手のひらを、氷から、少しだけ浮かせた。

それから、氷を、叩いた。とん、とん。…とん。とん、とん。

下から聞こえた音と、同じ間隔で。

氷の下の音が、止まった。

しばらく、何も、聞こえなかった。

それから、音が、返ってきた。とん、とん。…とん。

さっきより、少しだけ、速かった。

『返事、した』

オスカが、目を開けた。


穴の水が、また、盛り上がった。

白い手が、ゆっくり、現れた。水と氷でできた、大きな手のひら。

樽は、もう、なかった。

手のひらの上に、四角い氷のかたまりが、一つ、載っていた。人の頭ほどの大きさ。透き通っていた。

そのまん中に、黒い点が、一つ。

氷の中に、閉じこめられていた。

「…凍らせたのか」

マーロウの声が、かすれた。

「水に出た点を。自分の海が、粒にされる前に」

白い手は、氷のかたまりを、オスカのほうへ、そっと差し出した。

オスカは、立ち上がった。開いたままの両手を、左右から、氷のかたまりに当てた。

挟んで、持ち上げた。

『…持てた』

白い手の表面が、とん、と、一度だけ、震えた。


港の船の、竈の火で、マーロウは、氷のかたまりを溶かした。

船長が、薪を、竈いっぱいに詰めこんでいた。

『火なら、いくらでも焚く。港の灯りの礼だ』

「頼む」

氷が、少しずつ、痩せていった。黒い点が、火に近づいた。

最後の氷が溶けるのと同時に、黒い点は、火の中に落ちた。

小さく、光って、見えなくなった。

甲板の上で、船乗りたちが、帽子を投げ上げた。グレゴールが、ロルフの背中を、一度叩いた。

マーロウは、火を見ていた。ヘルンの船渠で一つ。組合の炉で一つ。港の船の竈で一つ。三つとも、自分の手で燃やした。自分の指から出た血だった。

ミラベルが、マーロウの手を、握った。

『三つ』

「ああ。…三つとも、燃やした」

ミラベルは、マーロウの手を、両手で包んだまま、しばらく、何も言わなかった。

それから、声を上げて、泣いた。

「なんで泣く」

『分かんない。…うれしいのに、出てくるの』

オスカが、横で、開いた手のひらを、自分の頬に当てた。濡れては、いなかった。

「…オスカは、出ない」

『出なくていい。あたしが、二人ぶん、出すから』


船が浮かび上がる前に、白い手が、もう一度、穴から出てきた。

手のひらを、上に向けて。何も、載せずに。

オスカが、船の手すりから、身を乗り出した。

「…名前、あげる?」

ミラベルが、訊いた。

オスカは、首を横に振った。

『ニコに、つけてもらう。…ドンとトンの、きょうだいだと、思うから』

白い手は、しばらく、空に向いたまま、止まっていた。

それから、とん、と、手のひらで、氷を一度叩いて、穴の中へ、沈んでいった。

機械が止まってから、三十三日目の夕方だった。

第二十四章 了