海壁

第七章

一つ分

挿絵:一つ分

翌朝、ベルは、杭の列から戻ってくると、今度は走らなかった。

ミラベルの前まで、まっすぐ、歩いてきた。

『増えました』

「…いくつ?」

『指の関節、一つ分です』

ミラベルが、何か言うより先に、うしろで、ウィラが叫んでいた。

「一つ分!」

春から、朝ごとに、何度も聞いた言葉だった。減った分を数える言葉だった。

今朝は、増えた分だった。

ウィラは、叫んでから、自分で驚いたように、口を押さえた。それから、もう一度、もっと大きな声で、叫んだ。

「一つ分ーっ!」

ミアが、帳面を抱えたまま、ウィラに飛びついた。ニコが、その上から飛びついた。三人で、東門の前に、転がった。

ベルが、自分の胸に、金属の手を当てた。

『…胸の内側が、軽いです。増えるのを数えるのは、初めてです』

ミラベルが、ベルを、両腕で抱えこんだ。

「これからは、ずっと、それ」


昼、提督が、詰め所の机に、封をした手紙を置いた。

『都に着いた帝国の船が、預けていった。あなた宛てだ。…着いた日に渡すつもりが、ヨアの子と、獣の騒ぎで、遅れた』

「読んでくれ」

マーロウが言うと、ロズリンが、封を切った。細い、きちんとした字だった。

ケインの子へ。セラフィナ・ロウより。

陛下は、お元気です。咳は、少しだけ。

本部から帝国へ届いていた粒が、止まりました。帝国の船と灯りは、いま、蔵の粒で動いています。蔵の粒は、十年ぶんほどです。

陛下のお言葉を、そのまま書きます。

ケインの子に、一粒も、頼むな。頼むくらいなら、船を降りて、歩け。

エステルが、ウィラ・ケインによろしくと、申しております。灯りは、毎晩、自分で消しております。

ロズリンが、読み終えて、顔を上げた。

ミラベルが、腕を組んで、うなずいていた。

『ばあちゃん、かっこいい』

「…頼まれても、困るからな」

ウィラが、手紙の最後の行を、覗きこんでいた。

『エステル、灯り、自分で消してるんだ』

それだけ言って、少しだけ、笑った。


提督は、手紙のあとで、もう一つ、言った。

『それから。議会の四人が、牢を出た』

部屋が、静かになった。

『十日前の夜だ。牢番が一人、一緒に消えた。…議長が、追わせている』

「行き先は」

『分からない』

ドラグが、腕を組んだ。

「壁の見張りを、倍にする」

『夜の番は、私が』

グレゴールが、戸口から言った。

『一晩や二晩、眠らなくても、平気です。…将軍は、よく、夜の番を、私にやらせましたから』

マーロウは、窓の外の、乾いた底を見た。池から海へ延びる、太い水の筋が、昼の光で、光っていた。

「来たら、そのとき考える。…今日は、海が増えた日だ」


市場では、ガスが、ニコをつかまえていた。

『おい、坊主。都に帰ったら、ドンってやつに、会うんだろ』

「会うよ。毎日、麦の横に、座ってる」

『あいつ、ここの海から来たんだよな』

ニコは、うなずいた。ドンは、この春まで、海壁の街の海の中にいた。南へ去っていく光を、街の者は、壁の上から見送った。

ガスは、頭を、がしがしと掻いた。

『言っとけ。…礼を言いたかった、って。あいつがいたころ、壁の外に、草が生えたんだ。おれは、礼も言わずに、行かせちまった』

「ガスさん、あのとき、泣いてた。ぼく、見てた」

『泣いてねえ』

「泣いてた」

『…少しだ』

ニコは、にっと笑った。

「言っとく。海が、一つ分、増えたってことも。ドン、きっと、喜ぶ」

ガスは、鼻をすすって、ニコの頭を、三本の指で、くしゃくしゃにした。


夕方、ウィラが、壁の上で、木の牛を手のひらに乗せていた。

『父さん。海が戻ったら、浜に、草、生える?』

「前に、生えた。海のそばに、あいつがいたころにな」

『じゃあ、エマは、浜で飼う』

ウィラは、木の牛を、海のほうへ向けた。

『エマ。あそこが、おまえの草になるとこ』

マーロウは、ウィラの頭に、手を置いた。二十一度目だった。

ウィラは、数えていた。数えていることを、言わなかった。


夜、納屋の毛布の中で、ミラベルが、マーロウの胸に、耳をつけていた。

『坊や。頼まれたら、どうするの。粒のこと』

「断る」

『ばあちゃんに、頼むなって言われてるのに、頼みに来る人がいたら?』

「断る。…エリスに、頼まれてるからな」

ミラベルは、しばらく、黙っていた。

『あたしも、頼んでる。坊やの血は、朝の一滴だけ、って』

「知ってる」

『あたしの頼みも、きく?』

マーロウは、ミラベルの頭を、胸に、押しつけるように抱えた。

「おまえの頼みは、全部きく。…一滴ずつな」

ミラベルは、マーロウの胸の中で、足を、ばたばたさせた。

機械が止まってから、十四日目の夜だった。

第七章 了