第二章
一番に

朝、白い道の上で、マーロウは、鉤で、左の人差し指を突いた。
一滴を、ミラベルの唇に。もう一滴を、オスカの唇に。
『おはよう、ミラベル』
「おはよう、オスカ」
白い道の入り口に、船が二隻、浮いていた。提督の船と、帝国の灰色の船。
提督の船は、十二の家の者を乗せて、南の畑へ。途中で、東の谷に寄る。帝国の船は、西の海壁の街へ。
孤独の大地に残ると言った白い服の人たちが、道の端に、ばらばらに立っていた。並んではいなかった。誰にも、並べと言われていないからだった。
エミルが、鉄の棒を腰に下げて、マーロウの前に来た。
『谷に、帰る。塩を、掘らなきゃ。…ヘルガが、うるさいから』
「聞こえてるぞ」
うしろで、ヘルガが、腕を組んでいた。
『聞こえるように、言わせてるんだよ。この子は、やっと、うるさいって言えるようになったんだ』
「見張り、ご苦労さん」
ヘルミーナが、指で、マーロウの胸をつついた。
『ケインの子。たまには、畑に、顔を見せな。婆さんは、待つのが、下手でね』
「ケインの家は、待つのが、得意らしい」
『なら、あんたが、待たせないで来な』
オスカは、ヨナスの前に立っていた。開いたままの両手を、胸の前に出して。
「ヨアの子、元気?」
『畑の水路で、待ってます。…あの子、あなたの手を、覚えてると思います』
「覚えてる?」
『はさんで、持ってくれた手ですから』
オスカは、自分の手のひらを、じっと見た。
「…また、持ちに行く」
ヨナスは、うなずいてから、マーロウのほうを向いた。
『ヨアに、子を、もう一つ、頼んでみます。ここへ連れてくる子を』
「頼む」
ペトラが、船に乗りこみながら、光の柱の数を、指で数えていた。
ドラグとロズリンは、帝国の船のほうへ歩いた。
『隊長。帰りましょう。壁が、あけっぱなしです』
「グロムがおる。…だから、帰る。あいつは、真面目すぎる」
船は、西へ飛んだ。
船の二日目、ウィラが、甲板で、帳面を広げていた。オスカが、その横に座っていた。
『ウィラ。…何、書いてるの』
「名前。止まった日から、会った人の。ロズリンの真似」
『オスカの名前、ある?』
「ある。いちばん上」
オスカは、帳面を、長いこと見ていた。
『…書いてみたい』
ウィラは、筆を差し出した。オスカは、開いたままの両の手のひらで、筆を挟んだ。そのまま、帳面の端に、ゆっくり、大きく、字を書いた。
オスカ。
字は、斜めに傾いて、最後の一画が、はみ出していた。
『…曲がった』
「曲がってていい。うちの父さんと母さんの石の字も、曲がってる」
『ウィラの、父さんと、母さん』
「うん。二人とも、歌が、下手」
オスカは、笑った。ミラベルとは、少し違う笑い方で。
その日の夕方、ミラベルが、甲板の手すりにもたれて、マーロウを待っていた。
『坊や。行きの船で、着いたらな、って言った』
「言った」
『着いたのに、まだ、してない』
「塔の下で、おまえが、先に抱えて回ったろ」
『あれは、あたしから。坊やからじゃない』
マーロウは、ため息をついた。それから、ミラベルのうしろに回って、両腕を、腰に回した。
ミラベルは、金属の左手と、肉の右手を、マーロウの腕の上に重ねた。曲がっていた指は、四本とも、まっすぐだった。
『…あったかい』
「これで、いいか」
『あと、百回』
「数えるな。…帰ったら、毎日やる」
ミラベルは、何も言えなくなって、甲板を、足で、どんどん踏んだ。
ロズリンが、少し離れたところで、帳面を閉じた。
『書きません。…書きませんから』
眼鏡が、曇っていた。
船の三日目の昼、海壁が見えた。
壁の外に、乾いた底が、どこまでも続いていた。杭の列が、その上に、まっすぐ並んでいた。海は、その先の、細い青い線だった。
壁のてっぺんの細長い口からは、腕が、一本も出ていなかった。
光の柱で、東門の前に降りた。
最初に走ってきたのは、ベルだった。ミラベルと同じ顔の、二番目の刃。本部の錆びない金属の腕を、大きく振って。
ベルは、誰の前も素通りして、ミラベルの前で、ぴたりと止まった。
『一番に、報せると、言いました』
「言った!」
『杭の数字が、減らなくなりました』
ベルは、指を折った。
『今朝も、きのうの朝も、おとといの朝も、同じ数字です。その前の朝は、指の関節、半分でした。半日ぶんだけ、減ったのだと思います』
「半日ぶん」
『三日前の朝から、壁に報せても、返事が、ありません』
「止まったの。本部。十二人で、止めたの」
ベルは、しばらく、動かなかった。それから、自分の胸に、金属の手を当てた。
『…胸の内側が、軽くなりました。いつもより、ずっと』
ミラベルは、ベルに飛びついた。
「一番に、って、あたしが一番だから?」
『…両方です』
ミラベルは、ベルに抱きついたまま、乾いた底を見た。
「海、戻る?」
『戻りません。減らなくなった、だけです。…水を戻すものが、ここには、いませんので』
オスカが、ベルの横に来た。
「ヨアの子なら、持てる」
『ヨア、とは、何ですか』
「水を、戻す子。あたしが、手で、持った」
『…見てみたいです』
「ヨナスが、ヨアに、もう一つ頼むと言ってた。孤独の大地に、連れていく分だ」
マーロウは、乾いた底を見わたした。
「ここの分も、頼まなきゃな。…この底が、全部、埋まるまで」
ガスが、門のほうから、走ってきた。オットとサム。帳面を抱えたミア。杏の籠のニム。腕を組んだヴェスタ。左手を上げたガルド。
『帰ってきたな! 全員か!』
「全員だ」
『じゃあ、今夜だ。三回。三回目は、長いぞ。覚悟しとけ』
「長くやれ」
壁の上から、グロム・ハルヴァーが降りてきた。オークの兵の頭で、隊長の留守に、壁を預かっていた男だった。グロムは、ドラグの前で、背筋を伸ばした。
『隊長。壁の腕が、出てきません。三日前の朝から、一本も』
「出てこんで、ええ」
『はい』
壁の上には、グレゴールが、槍を持って立っていた。背中に、厚い布を当てて。その足もとで、子どもが三人、グレゴールを見上げていた。
グレゴールは、やっぱり、困った顔をしていた。
機械が止まってから、四日目だった。
第二章 了