海壁

第八章

ヨカ

挿絵:ヨカ

朝の一滴のあと、オスカは、まっすぐ壁の根へ降りていった。

マーロウとミラベルが追いつくと、オスカは、水路の縁に座っていた。

ヨアの子は、もう、桶では足りなかった。洗い張りの大だらいほどに育って、水路の真ん中で、ゆっくり、ふくらんだりしぼんだりしていた。白い根が、何十本も、両側の棚へ伸びていた。手前の棚は、もう、空になりかけていた。

ヨナスが、その横で、根の一本に手を当てていた。

「元気か」

『元気です。…食べすぎなくらいです』

オスカが、立ち上がった。開いたままの両手を、胸の前で合わせて。

「名前、決めた」

ミラベルが、息を止めた。

「ヨアの、半分。…それと、あたしの、半分」

オスカは、白いものを、まっすぐ見た。

「ヨカ」

水路の真ん中で、白いものが、ふうっと、ふくらんだ。腹の奥の青い光が、一度、明るくなった。

『…いい名前です』

ヨナスの声が、少し、かすれていた。

ミラベルが、オスカの背中に、飛びついた。

「半分ずつ! あたしのやり方!」

『ミラベルのやり方で、オスカのやり方』

「そう! それ!」

ロズリンが、階段の途中で、帳面を開いていた。

帝国暦三四九年、夏の終わり。壁の根の水路で。

その下に、書いた。

名前、ヨカ。命名者、オスカ。

ロズリンは、顔を上げて、少しだけ笑った。

『記録します』

オスカは、目を丸くした。それから、ミラベルと顔を見合わせて、二人で、同じ顔で、笑った。


昼過ぎ、ニコが、水路の縁に、耳をつけていた。

『ヨカ、名前、気に入ったって』

「ほんと?」

『ほんと。…呼ばれるたびに、お腹が、あったかくなるって』

オスカは、しばらく黙っていた。それから、水路のほうへ、身を乗り出した。

「ヨカ」

白いものが、また、ふくらんだ。

「…ヨカ」

もう一度。

オスカは、何度も呼んだ。呼ぶたびに、ヨカは、ふくらんだ。ニコが、途中で数えるのをやめて、笑いだした。


夕方、ベルが、水路の縁で、指を折っていた。ヨカの根が棚から粒をすくうのを、一つずつ数えていたのだった。

『ヨカは、一刻に、三百粒ほど、食べています。きのうより、多いです』

「育ってるからな」

『この速さのままなら、棚は、秋の終わりに、空になります』

ベルは、もう一本、指を折った。

『そのころ、海は、この春の高さまで、戻ります』

ミラベルが、ベルの肩に、顎をのせた。

「春って、腕が出てくる前?」

『はい。腕が出てくる、少し前の高さです』

「じゃあ、嬢ちゃんの牛、浜で飼えるね」

ベルは、少し考えてから、うなずいた。

『浜の草のことは、測っていません。…明日から、測ります』


夜、壁の上で、ウィラとニコが並んでいた。

提督の船は、明日の朝、都へ発つ。ヨナスは、途中で畑に降りる。ニコは、都まで。

「帰ったら、筒、ちゃんと飲んで」

『毎日、飲んでる。姉ちゃん、それ、会うたびに言う』

「会うたびに言うの。姉ちゃんだから」

ニコは、壁の外の、池と、海へ延びる水の筋を見ていた。

『姉ちゃん。牛、飼ったら、ちゃんと名前で呼んでね』

「当たり前でしょ」

『前の牛は、売られちゃったから。…今度は、ずっと、呼べるね』

ウィラは、何も言わずに、ニコの頭を、ぐしゃぐしゃにした。


翌朝、東門の前に、光の柱が降りた。

ヨナスが、マーロウの前で、大きな手を差し出した。

『孤独の大地の分は、畑に戻ったら、ヨアに頼みます。ヨカの、弟か、妹か』

オスカが、ヨナスの手を、開いた両手で、挟んだ。

「ヨカは、あたしが、見てる」

『はい。…あなたなら、安心です』

「頼んだぞ」

提督は、柱の手前で、振り向いた。

『四人のことは、何か分かったら、報せる』

「ああ」

ガスが、ニコの前に、のしのしと歩いてきた。

『坊主。忘れんなよ』

「ガスさん。ドンに、ちゃんと言っとく。礼を言いたかった、って」

『…おう』

ガスは、三本の指で、鼻の下をこすった。

『草のことも、言えよ』

「言う」

光の柱が、三人を、空へ運んでいった。ウィラは、壁のいちばん高いところで、船が見えなくなるまで、手を振っていた。


その夜、ミラベルは、壁の上で、足をぶらぶらさせていた。

『オスカ、名前つけるの、上手だった』

「おまえの妹だからな」

『坊やの考えた名前は?』

「まだだ」

『ヒントだけ』

「だめだ」

『一文字だけ』

「だめだ」

ミラベルは、頬をふくらませた。

マーロウは、しばらく、黙って海を見ていた。

「…おまえが、最初に呼ぶ名前だ。おれより先に。だから、まだ、言わない」

ミラベルは、頬をふくらませたまま、目だけ、うるうるさせた。

『ずるい。…それ、ずるい』

機械が止まってから、十六日目の夜だった。

第八章 了