海壁

第六章

底の主

挿絵:底の主

昼過ぎ、ルーカスが、壁の上で、顔色を変えた。

『何か、起きました。底の、ずっと下で。…大きいです』

「獣か」

『海が引く前から、そこで寝ていたものです。水の筋が、上まで染みて、それで、目を』

言い終わる前に、乾いた底が、盛り上がった。

水の筋の、半分ほど先だった。ひび割れた土が、丘のように持ち上がり、崩れて、中から、黒い背中が現れた。

焼けて固まった塩の背中。割れ目が、赤く光っていた。壁の半分ほどの高さがあった。

頭の先に、家が一軒入りそうな、輪になった歯。目はなかった。

腹の割れ目から、白い光が、何十本も漏れていた。

「…食ってる。三百年ぶん、底の粒を」

マーロウは、声を落とした。

「腹は、絶対に割るな。あれだけの粒が一度にほどけたら、壁ごと、街が飛ぶ」

グレゴールの背中の羽根が、ケイルの腕の中でほどけたときと、同じだった。粒が一度にほどける光を、ここにいる何人かは、見ていた。

獣は、水の筋に鼻先をつけて、壁のほうへ、ゆっくり這いはじめた。筋の出どころへ。壁の根の、粒の匂いへ。


ニコが、壁の石に、耳を押しつけていた。

『あいつ、苦しがってる』

「苦しい?」

『ずっと、お腹すいてて、いっぱい食べて、今、お腹が、痛いって。…水が欲しいって』

マーロウは、壁の根のほうを、振り返った。

「…水、か」

オスカが、もう、立ち上がっていた。

『ヨアの子なら、あのお腹の粒、水に戻せる』

「…中に入れるのか。あの口の中に」

『あたしの手は、つかめない。でも、はさめる。…運べる』

ミラベルが、オスカの肩を、つかんだ。

「あたしが、口を開けとく。オスカは、入れたら、すぐ出てくるの。約束」

『約束』


マーロウは、鉤で、手のひらを突いた。ミラベルの唇に、押し当てた。

二滴目だった。

ミラベルの金属の目が、強く光った。

次の瞬間、ミラベルは、壁の上から、消えていた。

乾いた底に、土煙が立った。ミラベルが、獣の鼻先に、正面からぶつかっていた。

獣が、止まった。

山のような体と、ミラベル一人が、押し合っていた。獣の前脚が土をえぐり、ミラベルの足が、うしろへ、ずるずると滑った。それでも、獣は、一歩も前へ出られなかった。

壁の上で、兵たちが、声も出さずに見ていた。

『…あれが、一番、か』

グロムが、呟いた。

獣の喉が、白く光りはじめた。輪の歯の奥が、壁を向いた。

ミラベルが、上顎の縁を両手でつかんで、ぐいと持ち上げた。白い光の線が、空を裂いた。

「今だ、オスカ!」


オスカは、ヨアの子を、開いた両手で挟んで、走っていた。桶ほどに育った白い体を、胸の前に抱えるように。

腰には、縄が巻いてあった。

縄の端は、壁の下で、グレゴールが握っていた。そのうしろに、オークの兵が、五人、縄にとりついていた。

『翼がなくても、つかむことは、できます』

グレゴールだった。ドラグが、うしろから言った。

「離すなよ」

『離しません』

ミラベルが、獣の口を、上下にこじ開けた。

「オスカ!」

オスカは、跳んだ。開いた口の奥へ、ヨアの子ごと、まっすぐ飛びこんだ。白く光る喉の、そのまた奥へ。

一つ、二つ、三つ。

ドラグが、引け、と吠えた。グレゴールと兵たちが、縄を引いた。オスカが、口の中から、転がり出てきた。両手は、空だった。

獣の腹の中で、何かが、動いた。

腹の割れ目から漏れていた白い光が、一本、また一本と、消えていった。

代わりに、獣の体が、ふくらみはじめた。塩の背中が軋み、割れ目が広がった。重くなった体が、ずしりと沈んだ。

『粒、減ってる』

ニコが、壁の上で叫んだ。

『あいつ、もう、痛くないって!』

白い光が、全部、消えた。

「ミラベル。脇腹だ。浅く」

ミラベルが、名前のない剣を抜いた。獣の脇腹に、横に一筋、浅く引いた。

水が、噴いた。

獣の体から、滝を横に倒したような水が、乾いた底へ、どっと流れ出した。海のほうへ。しぶきは、壁までは、届かなかった。

流れの中から、白い、ひと回り大きくなったものが、ぽんと飛び出した。

オスカが、走った。水の手前で跳んで、開いた両手で、空中で、挟みとった。

『…持てた』


水が抜けると、獣は、ただの、塩の殻の山になっていた。

ミラベルが、首を、一振りした。

乾いた底に、大きな池ができていた。池から、太い筋が、海のほうへ延びていた。

グレゴールは、縄を握ったまま、座りこんでいた。手のひらが、縄で擦れて、赤くなっていた。

ドラグが、その前に立った。

「…離さんかったな」

『はい』

「兄貴は、翼で飛んだ。おまえは、縄で、あいつを飛ばした」

グレゴールは、赤くなった手のひらを、しばらく見ていた。

『…将軍なら、離さなかったと、思っただけです』

ミラベルが、オスカに抱きついた。

「オスカ! 入って、出てきた! 約束、守った!」

『約束だから』

オスカは、ヨアの子を挟んだまま、ミラベルとは違う笑い方で、笑った。

機械が止まってから、十三日目の夕方だった。

第六章 了