海壁

第二十五章

帰りは、でーと

挿絵:帰りは、でーと

一日半で、港の船は、ヘルンの崖の上に戻った。

組合の通りは、夜になっても、明るかった。ほかの通りの灯りも、三つに二つ、点くようになっていた。

坂の途中の家の戸口に、サイラスが、立っていた。うしろの窓から、ジェロームが、外を見ていた。

『お帰りなさいませ。…三つとも、でございますか』

「三つとも、燃やした」

サイラスは、眼鏡を押し上げた。目だけが、笑った。今日は、口も、少しだけ、動いた。

『父に、伝えます』

サイラスは、腕に抱えていた革の鞄を、少しだけ持ち上げた。ジェロームが抱えて逃げた、あの鞄だった。

『父の鞄は、私が預かりました。燃やすかどうか、ずっと、考えておりました』

「どうする」

『燃やしません。…ケインの血のことが書いてある頁だけ、全部、線で消しました。一行ずつ。判も、押しました』

サイラスは、少しだけ、胸を張った。

『判を押すのは、私の仕事でございましたから』

うしろの窓が、少しだけ、開いた。

「…サイラス。昼の、弁当は」

ジェロームの声だった。サイラスは、振り向かなかった。けれど、答えた。

『あとで、お持ちします。…今度は、振り向いてください』

窓の中で、ジェロームが、何か言いかけて、黙った。それから、窓を、そっと閉めた。


組合の建物の前で、ベルンハルトが、待っていた。

手に、小さな灯りを一つ、持っていた。硝子の笠の中で、粒が一つ、白く光っていた。

『港の蔵の、粒だ。あの点が落とした分の、一つ』

ベルンハルトは、灯りを、マーロウに差し出した。

『おふくろさんの石が、あると聞いた。…そこに、置いてやれ。十年は、消えん』

マーロウは、灯りを、しばらく見ていた。

それから、受け取った。

「…礼を言う」

『言うのは、こっちだ』

ミラベルが、横から、灯りを覗きこんだ。

「リーネさん、喜ぶ。…明るいの、好きだったと思う。坊やのお母さんだもん」

『そうか』

ベルンハルトは、太い首を、少しだけ、縦に振った。


翌朝、港の船は、崖を離れて、南西へ向かった。海壁の街まで、四日。

船が雲の上に出ると、ミラベルが、マーロウの前に、仁王立ちになった。

『坊や。帰りは、でーとって、言った』

「…言った」

『言ったよね。取り返したら、って。取り返した。三つとも』

マーロウは、ため息をついた。

「何をする」

『分かんない。でーと、したことないもん。…エルナの村のは、見せびらかしだったし』

ミラベルは、甲板を見まわした。

それから、舳先を、指さした。

『あそこ。二人で、座る』

「…分かった」

オスカが、開いた両手を胸の前で合わせて、船のうしろのほうへ、すたすたと歩いていった。

『でーとの、邪魔、しない』

グレゴールとロルフが、顔を見合わせて、グリフォンの世話をしに、船の反対側へ行った。


舳先で、二人は、並んで座った。

下に、雲が、白く流れていた。ときどき、雲の切れ目から、乾いた土地が見えた。

ミラベルは、マーロウの肩に、頭をのせていた。

『でーとって、こうするの?』

「知らん」

『知らないけど、たぶん、合ってる。…だって、何もしてないのに、楽しいもん』

雲が、船の下で、ゆっくり、ほどけていった。

『坊や』

「何だ」

『でーとのときは、言ってほしいの』

「何を」

『分かってるくせに』

マーロウは、雲を見ていた。

しばらく、何も言わなかった。

それから、言った。

「…好きだ」

ミラベルの肩が、ぴくりと、跳ねた。

「北の氷の上で、おまえが泣いたとき。…うれしいのに出てくるって、言ったとき。いちばん、そう思った」

ミラベルは、何も言えなかった。

マーロウの肩に、顔を押しつけて、足を、ばたばたさせた。舳先が、少し、揺れた。

船のうしろで、オスカが、開いた両手で、自分の顔を、そっと挟んでいた。見ないように。見ていた。


四日目の夜、雲の下に、灯りが見えた。

乾いた底の向こうに、細い海。その手前に、長い壁。壁の上に、点々と、灯り。

ミラベルが、舳先で、立ち上がった。

『…見えた』

「ああ」

『あたしたちの、街』

マーロウの手の中で、ベルンハルトの灯りが、小さく、白く光っていた。

機械が止まってから、三十九日目の夜だった。

第二十五章 了