海壁

第二十二章

母さんの石

挿絵:母さんの石

昼過ぎ、ヘルンの通りから、貼り紙が消えていった。

組合の男たちが、壁から一枚ずつ剥がして、炉へ運んでいた。ベルンハルトが、それを、組合の戸口から、腕を組んで見ていた。

明るい通りでは、灯りが、昼の光の中で、まだ点いていた。オスカが、その下に立って、灯りを見上げていた。

子どもが二人、オスカの外套の端から覗いた金属の指を、珍しそうに見ていた。

「…触る?」

オスカが、開いた両手を差し出すと、子どもたちは、そっと、手のひらに、自分の手を重ねた。

『つめたい』

「つかめない。でも、はさめる」

オスカは、子どもの手を、両の手のひらで、そっと挟んだ。子どもが、声を上げて笑った。


サイラスの家の戸が、十何年ぶりに、開いた。

窓の板を外すと、埃の中に、光が入った。机が一つ。椅子が二つ。壁に、小さな子どもの背丈の線が、いくつも刻んであった。

ジェロームは、縄をかけられたまま、その線の前に、立っていた。

「三つ目の点は、どこにある」

マーロウが訊くと、ジェロームは、線から目を離さずに、答えた。

『北の氷原の、氷の口です。氷に、井戸のように、深い穴が開いているところがあります。その下が、海です。日の光が、届かない海です。深い水の、目に見えない生き物が、生きています。…いちばん古い海です』

「運んでいるのは」

『氷の運び屋が、二人。犬ぞりで。四日前に、港を出ました。氷の口まで、六日』

「あと、二日か」

グレゴールが、戸口で言った。

『グリフォンなら、半日。港の船なら、一日半です』

「船は」

港の船の船長が、その横で、帽子を握っていた。

『帆柱なんぞ、なくても、飛べる。光の柱で浮いとるんでな。…この港の灯りを、残してくれた人らだ。北でも、どこでも、連れていく』


夕方、サイラスは、壁の線の前で、父と並んで、座っていた。

『父さん。…母さんの石に、最後に行ったのは、いつですか』

船渠で訊いたのと、同じ問いだった。

ジェロームは、今度は、答えた。

「去年の、冬の最初の日だ」

サイラスが、顔を上げた。

「毎年、冬の最初の日に、行っていた。…おまえが、寝ているうちに」

『知りませんでした』

「言わなかったからな」

ジェロームは、壁の、いちばん下の線を、指でなぞった。

「これは、おまえが三つのときだ。母さんが刻んだ。…その上の十本は、私が刻んだ。おまえが寝ているうちに」

ジェロームは、指を、線から離した。

「手入れというのは、止まらないようにすることだ。…おまえが止まらないように、私は、弁当を受け取って、振り向かなかった。振り向いたら、止まる気がした」

サイラスは、眼鏡を外した。

外したまま、何も言わなかった。肩が、少しだけ、震えていた。


マーロウは、サイラスを、戸口に呼んだ。

「親父さんは、どうする。都の議長に渡すか、帝都か」

サイラスは、眼鏡をかけ直した。目だけが、笑った。けれど、今日は、少し違って見えた。

『私が、この家で、見張ります。…父を見張るのは、息子の仕事でございます』

「ここに、残るのか」

『はい。北へは、ご一緒できません。…申し訳ございません』

「謝るな」

マーロウは、サイラスの肩を、一つ叩いた。

「あんたが来なけりゃ、ここまで来られなかった」

サイラスは、深く、頭を下げた。いつもより、長く。


夜、港の船の甲板で、ミラベルが、マーロウの肩にもたれていた。

『サイラスの、お母さんの石。…お父さん、毎年、行ってたんだね』

「ああ」

『坊やの、お母さんの石も、あるよね。海壁の街の、南の岩のとこ』

「ある」

『帰ったら、一緒に、行こ』

ミラベルは、マーロウの手を、両手で包んだ。

『リーネさんに、言うの。…坊やの血、三つとも、取り返しました、って』

「まだ、一つ残ってる」

『だから、取り返すの。明日』

マーロウは、ミラベルの頭に、頬をつけた。

「…一緒に、行こう。お袋のとこ」

翌朝、港の船は、北へ飛び立った。崖の上の家の戸口に、サイラスが、一人で立って、手を振っていた。

機械が止まってから、三十二日目の朝だった。

第二十二章 了