海壁
第九巻の終わり 人物相関図
第九巻の終わり 人物相関図

第一章

エリスの板

挿絵:エリスの板

板の三行目から先は、短い文が、一行ずつ並んでいた。

マーロウは、声に出して読んだ。

私は、エリス・ケイン。機械を作った十二人の、一人です。

これを読んでいるなら、十二の家が、自分で決めて、席に手を置いたのでしょう。私たちには、できなかったことです。

ありがとう。

マーロウは、そこで、一度、息を吐いた。

ロズリンが、灯りを持つ手を、震えないように、両手に持ちかえた。

一つだけ、頼みます。

あなたの血は、海を粒にします。機械が、なくても。

だから、あなたの血を、誰にも、使わせないで。

ミラベルが、袖をつかむ指に、力をこめた。

私には、娘がいました。名前は、イーダ。蓋の上で、麦を育てていました。

あなたが、膝を抱えないで、背中を壁につけて座る人なら、それは、イーダの座り方です。私の座り方でもあります。

何かを待つときの、座り方です。

あなたが、もう、何も待たなくていい日が、来ますように。

その下に、名前が一つ。エリス・ケイン。

それで、終わりだった。


マーロウは、しばらく、黙っていた。

気がつくと、床に座っていた。ケインの椅子の脚に、背中をつけて。膝は、抱えていなかった。

ミラベルが、しゃがんで、マーロウの顔を覗きこんだ。

『坊や。…今、その座り方』

マーロウは、自分の膝を見た。背中を見た。

「…待ってるみたいか」

『待ってない』

ミラベルは、首を横に振った。

『もう、待たなくていいんだもん。板に、書いてあった』

ミラベルは、マーロウの横に、どすんと座った。背中を、椅子の脚につけて。膝は、抱えずに。

「何してる」

『あたしも、ケインだもん。ミラベル・グリム・ケイン』

ミラベルは、胸を張った。

『ケインの家の座り方、今日から、あたしもする』

マーロウは、少しだけ笑った。


ロズリンは、板の字を、帳面に写していた。一字ずつ、ゆっくり。二回。

『字の形が、少し古いです。でも、読めます。…読めるように、書いてくれたんですね』

ロズリンは、灯りを持って、ほかの十一の椅子の下を、一つずつ見て回った。

『隙間があるのは、ケインの椅子だけです』

「そうか」

『誰にも使わせないで、というのは』

ロズリンが、帳面から顔を上げた。

『マーロウさんの血を、海に落とせば、機械がなくても、粒になる。…それは、私たちも、もう、知っていることです』

「ああ。ずっと前から、知ってる」

『だから、この一行は、知らせるためではなくて、頼むために、書いてあるんだと思います』

「…そうだな」

ミラベルが、手を挙げた。

『はい。坊やの血は、朝の一滴。あたしと、オスカの』

「おまえが決めるのか」

『あたしが決める。嫁だもん。…ほかのやつには、一滴も、やらない』

マーロウは、板を、上着の内側にしまった。

「おれも、やらない。…おまえらの、朝飯だからな」


夜、白い道の端で、火を焚いた。

ロズリンが、写した帳面を、声に出して読んだ。ドラグが、横に座っていた。ウィラと、オスカと、ミラが、火の向こうにいた。十二の家の者たちも、輪になっていた。

読み終わると、ヘルミーナが、腕を組んだ。

『機械の腹の中に、機械が止まらないと開かない箱、か。…考えたね、ご先祖さんは』

「機械に、読まれないように、ですか」

ヨナスが言うと、ヘルミーナは、鼻を鳴らした。

『うちの婆さまたちは、帳面に書かないで、口で覚えた。あの人は、書いて、しまった。やり方が違うだけさ』

「書いて、しまっといた、か」

マーロウは、上着の上から、板を押さえた。

ウィラが、火の向こうから、マーロウを見ていた。

『父さん。ケインの子って、あたしも、入る?』

「入る。おまえは、ケインだ」

ウィラは、少し考えてから、うしろの岩に、背中をつけた。膝を、抱えずに。

『…こう?』

「そうだ」

ドラグが、二人を見比べた。

『親子で、同じ座り方しとるな』

「うるさい」

ロズリンが、帳面の新しい頁を開いた。筆を、少しだけ止めてから、書いた。

『二年のうちの、と書くのは、やめにします。数えていた二年は、もう、ありません』

「数えんでええのか」

ドラグが言うと、ロズリンは、首を振った。

『数えます。数えるものが、変わるだけです。…今日は、止まってから、一日目』

ペトラが、火の向こうで、膝を叩きながら、小さく「いち」と言った。


夜更け、白い建物の一室で、ミラベルは、マーロウの胸に、耳をつけていた。

『イーダって、坊やの、ずっと上の、ばあちゃん?』

「たぶんな」

『麦、育ててたんだって。ハーランの麦みたい』

ミラベルは、しばらく、心臓の音を聞いていた。それから、言った。

『あたしたちも、何か、育てようよ。帰ったら』

「何を」

『赤ちゃん。…拾って。前に、言ったでしょ』

マーロウは、天井を見た。

「名前、考えとく、って言ったな。前に」

『言った』

「考えた」

ミラベルが、がばっと顔を上げた。

『教えて!』

「拾ってからだ」

『ずるい!』

「ずるくない。…ちゃんと、考えた。おまえと、二人で呼ぶ名前だ」

ミラベルは、何も言えなくなって、マーロウの胸に、顔をぐりぐり押しつけた。

機械が止まってから、一日目の夜だった。

第一章 了