
第一章
エリスの板

板の三行目から先は、短い文が、一行ずつ並んでいた。
マーロウは、声に出して読んだ。
私は、エリス・ケイン。機械を作った十二人の、一人です。
これを読んでいるなら、十二の家が、自分で決めて、席に手を置いたのでしょう。私たちには、できなかったことです。
ありがとう。
マーロウは、そこで、一度、息を吐いた。
ロズリンが、灯りを持つ手を、震えないように、両手に持ちかえた。
一つだけ、頼みます。
あなたの血は、海を粒にします。機械が、なくても。
だから、あなたの血を、誰にも、使わせないで。
ミラベルが、袖をつかむ指に、力をこめた。
私には、娘がいました。名前は、イーダ。蓋の上で、麦を育てていました。
あなたが、膝を抱えないで、背中を壁につけて座る人なら、それは、イーダの座り方です。私の座り方でもあります。
何かを待つときの、座り方です。
あなたが、もう、何も待たなくていい日が、来ますように。
その下に、名前が一つ。エリス・ケイン。
それで、終わりだった。
マーロウは、しばらく、黙っていた。
気がつくと、床に座っていた。ケインの椅子の脚に、背中をつけて。膝は、抱えていなかった。
ミラベルが、しゃがんで、マーロウの顔を覗きこんだ。
『坊や。…今、その座り方』
マーロウは、自分の膝を見た。背中を見た。
「…待ってるみたいか」
『待ってない』
ミラベルは、首を横に振った。
『もう、待たなくていいんだもん。板に、書いてあった』
ミラベルは、マーロウの横に、どすんと座った。背中を、椅子の脚につけて。膝は、抱えずに。
「何してる」
『あたしも、ケインだもん。ミラベル・グリム・ケイン』
ミラベルは、胸を張った。
『ケインの家の座り方、今日から、あたしもする』
マーロウは、少しだけ笑った。
ロズリンは、板の字を、帳面に写していた。一字ずつ、ゆっくり。二回。
『字の形が、少し古いです。でも、読めます。…読めるように、書いてくれたんですね』
ロズリンは、灯りを持って、ほかの十一の椅子の下を、一つずつ見て回った。
『隙間があるのは、ケインの椅子だけです』
「そうか」
『誰にも使わせないで、というのは』
ロズリンが、帳面から顔を上げた。
『マーロウさんの血を、海に落とせば、機械がなくても、粒になる。…それは、私たちも、もう、知っていることです』
「ああ。ずっと前から、知ってる」
『だから、この一行は、知らせるためではなくて、頼むために、書いてあるんだと思います』
「…そうだな」
ミラベルが、手を挙げた。
『はい。坊やの血は、朝の一滴。あたしと、オスカの』
「おまえが決めるのか」
『あたしが決める。嫁だもん。…ほかのやつには、一滴も、やらない』
マーロウは、板を、上着の内側にしまった。
「おれも、やらない。…おまえらの、朝飯だからな」
夜、白い道の端で、火を焚いた。
ロズリンが、写した帳面を、声に出して読んだ。ドラグが、横に座っていた。ウィラと、オスカと、ミラが、火の向こうにいた。十二の家の者たちも、輪になっていた。
読み終わると、ヘルミーナが、腕を組んだ。
『機械の腹の中に、機械が止まらないと開かない箱、か。…考えたね、ご先祖さんは』
「機械に、読まれないように、ですか」
ヨナスが言うと、ヘルミーナは、鼻を鳴らした。
『うちの婆さまたちは、帳面に書かないで、口で覚えた。あの人は、書いて、しまった。やり方が違うだけさ』
「書いて、しまっといた、か」
マーロウは、上着の上から、板を押さえた。
ウィラが、火の向こうから、マーロウを見ていた。
『父さん。ケインの子って、あたしも、入る?』
「入る。おまえは、ケインだ」
ウィラは、少し考えてから、うしろの岩に、背中をつけた。膝を、抱えずに。
『…こう?』
「そうだ」
ドラグが、二人を見比べた。
『親子で、同じ座り方しとるな』
「うるさい」
ロズリンが、帳面の新しい頁を開いた。筆を、少しだけ止めてから、書いた。
『二年のうちの、と書くのは、やめにします。数えていた二年は、もう、ありません』
「数えんでええのか」
ドラグが言うと、ロズリンは、首を振った。
『数えます。数えるものが、変わるだけです。…今日は、止まってから、一日目』
ペトラが、火の向こうで、膝を叩きながら、小さく「いち」と言った。
夜更け、白い建物の一室で、ミラベルは、マーロウの胸に、耳をつけていた。
『イーダって、坊やの、ずっと上の、ばあちゃん?』
「たぶんな」
『麦、育ててたんだって。ハーランの麦みたい』
ミラベルは、しばらく、心臓の音を聞いていた。それから、言った。
『あたしたちも、何か、育てようよ。帰ったら』
「何を」
『赤ちゃん。…拾って。前に、言ったでしょ』
マーロウは、天井を見た。
「名前、考えとく、って言ったな。前に」
『言った』
「考えた」
ミラベルが、がばっと顔を上げた。
『教えて!』
「拾ってからだ」
『ずるい!』
「ずるくない。…ちゃんと、考えた。おまえと、二人で呼ぶ名前だ」
ミラベルは、何も言えなくなって、マーロウの胸に、顔をぐりぐり押しつけた。
機械が止まってから、一日目の夜だった。
第一章 了