海壁

第四章

何もない日

挿絵:何もない日

目を開けると、納屋の天井に、朝の光が細く差していた。

ミラベルが、横で、頬杖をついて、マーロウの顔を見ていた。

『おはよう、坊や』

「…いつから見てた」

『ずっと。何もない日だから、ずっと見てていいの』

戸口から、オスカとベルが、並んで覗いていた。ベルが、杭を測りに行く前に、オスカを連れてきたのだった。

「朝飯だ」

マーロウは、鉤で、左の人差し指を突いた。一滴を、ミラベルに。もう一滴を、オスカに。

『おはよう、ミラベル』

「おはよう、オスカ」

二人が行ってしまうと、ミラベルが、くるりと背中を向けた。

『はい』

「何だ」

『毎日やるって、言った』

マーロウは、ため息をついて、うしろから、ミラベルを抱いた。

ミラベルは、マーロウの腕に、自分の手を重ねた。

『…数えないよ。数えないけど、心の中で、一』

「数えてるだろ」


昼、二人は、市場の端の、ニムの店の前に座っていた。杏を一つずつ持って。

何もしなかった。杏を食べて、通りを見ていた。

ニムが、店の奥から、顔を出した。

『二百年この店をやっとるが、客が店先で何もしないで座っとるのは、初めてだ』

「邪魔か」

『いや。…見ていて、気分がいい』

ニムは、もう一つずつ、杏を置いていった。代金は、取らなかった。

「…悪いな」

ウィラが、通りの向こうから、走ってきた。

『父さん。あたし、決めた』

「何を」

『牛、飼いたい。今度は、売らない牛』

マーロウは、杏を持ったまま、ウィラを見た。

ウィラの家の牛は、十一頭、売られた。ウィラは、その全部に、名前をつけていた。売り物に名前をつけるなと、怒られながら。

「…いいんじゃないか」

『一頭目の名前も、決めた。エマ』

「お袋さんの名前か」

『母さん、牛の世話が上手だったんだって。父さんが…ハロルドの父さんが、言ってた』

ウィラは、胸を張った。

『今度は、名前をつけても、誰にも怒られない』

「そうだな」

ミラベルが、杏を持った手を、挙げた。

『二頭目は?』

「まだ。…ミラベルに、つけさせてあげてもいい」

『やった!』


壁の下では、オスカが、乾いた底の向こうを見ていた。

「ヨアの子、迎えに行きたい」

ルーカスが、横に来て、壁に耳を当てた。

『畑で、ヨナスさんに、話しておきました。この街の底も、乾いたままだって』

「…来る?」

『ヨナスさんは、頼まれなくても、来る人だと思います。…草の機嫌を、毎朝、見に行く人ですから』

オスカは、開いた両手を、胸の前で合わせた。それから、壁の上に座って、東の空を見はじめた。

ベルが、黙って、その横に座った。


夕方、ロズリンは、詰め所の机で、帳面を開いていた。

帝国暦三四九年、夏の終わり。止まってから、五日目。

その下に、一行だけ、書いた。

何も、起きていない。

ドラグが、うしろから覗きこんだ。

「…久しぶりに見たな、その行」

『はい』

ロズリンは、筆を置いた。

『東の掘削地で、三十七日、毎日、同じことを書きました。あのときは、書くたびに、怖かったんです』

「今は」

『今は、書けるのが、嬉しいです』

ドラグは、何も言わずに、ロズリンの頭に、大きな手をのせた。


日が傾くころ、ガスが、オットとサムを連れて、納屋の前にやってきた。

『おい。何もしない日ってのは、どうだ』

「悪くない」

『拾い屋には、いちばんきつい日だぞ。手が、勝手に動きやがる』

ガスは、三本の指で、壁の外を指した。

『乾いた底にな、昔の船が、三隻、出てきた。海が引いてからだ。中は、まだ誰も見てねえ』

「三隻か」

オットが、にやりと笑った。

『拾い屋が、四人いれば、三日で空にできる』

「…四人?」

サムが、マーロウの腰を指さした。

『おまえを入れて、四人だよ。その鉤、指を突くためだけに持ってるんじゃ、もったいねえだろ』

マーロウは、腰の鉤に、手をやった。服を繊維に戻して回す仕事。壁の外で、落ちてきたものを拾う仕事。

「明日は、まだ、何もしない」

『じゃあ、あさってだな』

ガスは、にかっと笑った。

『四人で行くのは、初めてだな。おまえは、いつも一人だったからな』


日が沈むと、マーロウとミラベルは、壁の上に座った。

『坊や』

「何だ」

『キスして』

マーロウは、ミラベルのほうを向いた。今度は、鼻は、ぶつからなかった。

ミラベルは、しばらく、目をつぶったままでいた。

『…何もない日の、ちゅう。味が、違う』

「同じだろ」

『違うの。何もないと、坊やしか、ないから』

マーロウは、乾いた底の向こうの、細い海を見た。

「なら、毎日、何もない日にしてやる。…できるだけな」

ミラベルは、マーロウの肩に、頭をぶつけるように、もたれかかった。

機械が止まってから、五日目の夜だった。

第四章 了