第三十章
帝都からの船

翌日の昼、東の空に、灰色の船が一隻、浮かんだ。
帝国の船だった。旗が、半分の高さに、下ろしてあった。
光の柱で降りてきたのは、セラフィナ・ロウと、エステルと、ヴァルター・ブラントだった。セラフィナは、包帯の右手で、エステルの手を引いていた。ヴァルターは、黒い革の手袋の手を、体の横に、下ろしたままだった。
ウィラが、走っていった。
「エステル!」
エステルは、母親の手を離して、ウィラに抱きついた。泣いてはいなかった。泣きすぎて、もう出ない顔だった。
セラフィナが、マーロウの前に、立った。
『陛下が、お亡くなりになりました』
東門の前が、静かになった。
『八日前の夜です。お休みになったまま、朝、お起きになりませんでした。…咳は、最後まで、少しだけでした』
ミラベルが、マーロウの袖を、つかんだ。
「…ばあちゃん」
ヴァルターが、一歩、前に出た。
『陛下から、ケインの子に、伝言がある』
ヴァルターの声は、低かった。
『わたしがいなくなったら、頼みに来るやつがいる。…そのときは、頼まれるな。あの子の血は、あの子のもんだ』
ヴァルターは、それだけ言って、黙った。黒い手袋の手が、少しだけ、震えていた。
ミラベルが、ヴァルターの前に、立った。前に、一度、本気でやり合った相手だった。
「ヴァルター。…ばあちゃんの、近衛」
『近衛だった。…今は、何でもない』
「じゃあ、泣いていいよ。近衛じゃないなら」
ヴァルターは、ミラベルを見下ろした。それから、目を、壁の外の海のほうへ、そらした。泣かなかった。泣かないまま、長いこと、海を見ていた。
詰め所に、みんなが集まった。
セラフィナは、椅子に座らずに、立ったまま、話した。
『陛下がお亡くなりになった次の日に、帝都で、帝国の長たちが集まりました。十の家の長と、港の商人たちと。…共和国の、議会の使いも、来ておりました』
「何を決めた」
『鍵を、押さえることを』
セラフィナは、包帯の手を、握りしめた。
『帝国の蔵の粒は、十年ぶんです。長たちは、陛下の、頼むな、というお言葉を、陛下と一緒に、葬りました』
「率いるのは」
『グレイ将軍です』
ドラグが、顔を上げた。
「おれを、この壁の隊長にした男だ」
『はい。…将軍は、陛下に、帝都を預けられた方です。陛下のいらっしゃらない帝国を、十年後も、灯りのある国にしておきたい、と。そう、おっしゃいました。悪い方では、ございません』
「船は」
『三十隻。兵は、三千。…十日で、ここに着きます』
部屋が、しんとした。
『私は、長たちの前で、反対いたしました。長たちは、三日、話しておりました。決まった夜に、エステルを連れて、船を出しました。…ヴァルターが、ついてきてくれました』
ヴァルターは、壁にもたれて、黙っていた。
ドラグが、腕を組んだ。
「三千か」
『壁の兵は、百にも足りません』
グロムが、言った。
「空は」
グレゴールが、戸口で、槍を握っていた。
『空の番は、五騎です』
マーロウは、机の木目を、見ていた。
それから、言った。
「…考える。一晩」
ミラベルが、マーロウの顔を見た。
『一人で?』
「一人じゃない」
マーロウは、ミラベルを見た。
「おまえと、二人で、考える」
ミラベルは、何か言いかけて、やめた。それから、マーロウの手を、両手で、握った。
夕方、ウィラは、エステルを連れて、リーネの石のところへ行った。ベルが、いつもの場所に、座っていた。
ベルンハルトの灯りが、石の前で、白く光っていた。
エステルは、灯りを、長いこと見ていた。
『陛下は、毎晩、灯りを、ご自分で、消していらっしゃいました。…わたしも、そうしてるって言ったら、笑ってくださいました』
「エステルは、今も?」
『今も。…でも、陛下がいない夜は、消すの、こわかった』
ウィラは、エステルの手を、握った。
「この灯りは、消さなくていいやつ。十年、点いてる。…だから、ここにいる夜は、消さなくていいよ」
エステルは、ウィラの肩に、額をつけた。
ベルが、二人を見ていた。
『…胸の内側が、重いです。かなしい、です。…でも、あたたかいも、少し、あります』
機械が止まってから、五十五日目の夜だった。
第三十章 了