海壁

第十七章

残る者、行く者

挿絵:残る者、行く者

翌朝、詰め所に、また、みんなが集まった。

サイラスが、机の上に、紙を一枚広げた。自分で描いた地図だった。海壁の街から、北東へ。荒れ地を越えた先に、丸が一つ。

『ヘルンの港です。帝国の北の端の、船を作る町。港の船なら、四日で着きます』

「港の船乗りは」

『帰りたがっております。家が、ヘルンにある者ばかりですので』

マーロウは、地図の丸を見た。

「行く。親父さんの持ってる、おれの血を、取り返す」

今度は、ミラベルは、何も言わなかった。ただ、マーロウの袖を、つまんだ。

「おまえも行く。オスカも。朝の一滴があるからな」

『行く!』

「…行く」

『道は、私がご案内いたします』

サイラスが、眼鏡を押し上げた。

『父を、止めに参ります。止めずに手入れをしてきた人を、止めるのは、息子の仕事でございます』

「頼む」

グレゴールが、手を挙げた。

『空から、先に見ます。ロルフと二騎で。残りの三騎は、ここの空の番に置いていきます』

ドラグが、うなずいた。

「壁は、おれが見る。ロズリンもな」

『隊長が、見るのは、壁と、私です』

ロズリンが、帳面から顔を上げずに、言った。ドラグは、何か言いかけて、黙った。


ウィラは、最後まで、黙っていた。

みんなが出ていってから、マーロウの前に、来た。

『父さん。あたし、ここにいる』

マーロウは、ウィラを見た。

前なら、ついてくると言った娘だった。掘削地で三十七日、座って待っていた娘だった。

『エマがいるし。ヨカもいるし。ロズリンのお腹もあるし。杭の数字も、ベルと一緒に、見なきゃいけないし』

ウィラは、指を折っていた。途中で、指が足りなくなった。

『待つんじゃないよ。守るの。…ここの、いちばん前で』

マーロウは、ウィラの頭に、手を置いた。二十二度目だった。

「頼む」

『任せて』

ウィラは、胸を張った。それから、小さな声で、付け足した。

『…帰ってきたら、エマ、大きくなってるからね。びっくりしてね』


昼、ベルが、納屋の前で、血のついた布を、焚き火に入れていた。

朝の一滴のとき、マーロウが指を押さえた布だった。

『今日から、血のついたものは、全部、燃やします』

「誰に言われた」

『誰にも。…乾いた血を削る人がいるなら、削られる前に、燃やします。測って、決めました』

ミラベルが、ベルの横に、しゃがんだ。

「ベル、えらい」

『えらいかどうかは、測れません』

「…えらいぞ」

ミラベルは、腰から、マーロウの鉤を、ひょいと抜き取った。

『坊や。今日から、坊やの指を突くのは、あたしがやる』

「なんでだ」

『坊やの血が、どこにも落ちないように。落ちたら、あたしが、すぐ拭いて、ベルが燃やすの』

マーロウは、しばらく、ミラベルの手の中の鉤を見ていた。

「…落とすなよ」

『落とさないよ。一番、強いんだから』


日が暮れてから、サイラスは、壁の上で、北東の暗い空を見ていた。

マーロウが、横に立った。

「親父さんは、どういう人だ」

サイラスは、しばらく、答えなかった。

『書類の運び方を、私に教えた人です。判の押し方も。…止まりかけた機械の音の、聞き分け方も』

眼鏡を、押し上げた。

『父は、悪人ではございません。自分を悪人だと思ったことが、一度もない人です』

「前に、どこかで聞いたな。それ」

『はい。私が、申し上げました。孤独の大地から、掘削地へ戻る荷車で』

サイラスは、少しだけ、口の端を上げた。目は、笑っていなかった。

『そこが、厄介なところでございます。…父も、私も』


夜、納屋の干し草の上で、ミラベルは、珍しく、静かだった。

『坊や』

「何だ」

『あたし、港って、見たことない』

「おれもだ」

『二人とも、初めてなんだ』

ミラベルは、マーロウの胸に、頬をつけた。

『でーとじゃ、ないよね』

「違う」

『…でも、ちょっとだけ、でーとの気分』

マーロウは、ミラベルの頭に、手をのせた。

「帰りは、でーとにしろ。…取り返したら、な」

ミラベルは、マーロウの胸の中で、足を、ばたばたさせた。エマが、干し草の向こうで、大きな鼻息を吐いた。

翌朝、港の船は、北東へ飛び立った。グリフォンが二騎、その先を飛んでいた。

ウィラは、壁のいちばん高いところで、木彫りの牛を、高く掲げていた。

機械が止まってから、二十六日目の朝だった。

第十七章 了