海壁

第十章

エマ

挿絵:エマ

翌朝、ウィラは、市場の東の端の、牛の囲いの前にいた。

囲いの中に、牛が九頭。どれも、首に木の札を下げていた。

マーロウとミラベルが来ると、ウィラは、一頭の前から、動かずに言った。

『父さん。この子』

茶色い、若い雌牛だった。額に、白い、ぶちが一つあった。痩せていたが、目が、まっすぐだった。

首の札には、明日の日付と、変換器、と書いてあった。

囲いの持ち主の男が、柵にもたれて、煙草を噛んでいた。

「この札は」

『その札のは、明日、帝国の箱に入る。一頭で、一粒だ』

「札のついてないのは」

『ない。…この夏から、箱の前に並ぶ牛が、倍になった。粒の値が、上がってるんでな。持ってる牛は、みんな、粒に換えたがる』

ウィラが、ポケットから、布の袋を出した。荷車を引いて貯めた、銅貨だった。

男が、袋の口を覗いて、首を横に振った。

半分にも、足りなかった。

ウィラは、袋を握ったまま、雌牛の額の、白いぶちを見ていた。


うしろから、ガスの声がした。

『おう、嬢ちゃん。いいとこにいた』

ガスと、オットと、サムだった。ガスが、重そうな布の袋を、ウィラの手に押しつけた。

「何、これ」

『きのうの樽の、半分の、ニムに売ったぶんだ。半分の、そのまた半分。…嬢ちゃんの牛の分だ』

「もらえない」

『もらえ。拾い屋の分け前ってのは、拾い屋が決めるんだ』

オットが、横から言った。

『三人で決めた。文句は、受けつけねえ』

「…なんで、そこまで」

サムが、雌牛の額を、そっと撫でた。

『ミアが、ゆうべ、帳面に書いてた。姉ちゃんが、牛の名前を、もう決めてるって』

ウィラは、袋を、両手で抱えていた。

それから、囲いの男に、二つの袋を、まとめて差し出した。

男は、中を数えて、雌牛の首から、札を外した。

「…エマ」

ウィラが呼ぶと、雌牛は、大きな舌で、ウィラの顔を、べろりと舐めた。

ミラベルが、手を叩いた。

『エマ! よろしくね、エマ!』

「エマ、びっくりしてる」

『…あ、そうだ。二頭目は、あたしが名前つけるって、言ったよね』

「言った。…二頭目は、エマが産んだらね」

『産んで、エマ! 早く!』

エマは、ミラベルの顔を、じっと見て、それから、干し草のほうを向いた。


エマは、納屋に住むことになった。

「あたしたちの納屋に、同居人!」

ミラベルは、喜んで、干し草を運んだ。オスカが、開いた両手で、桶を挟んで、水を運んだ。ベルは、エマの背丈と胴回りを、測っていた。

『高さ、ウィラの肩まで。明日も、測ります』

「毎日、測るのか」

『増えるのを数えるのは、好きです』

エマは、干し草を食べながら、納屋の中の、人間と、刃と、刃と、刃を、順番に見ていた。

オスカが、そっと、開いた両手を、エマの鼻先に差し出した。つかめない手のひらに、エマは、濡れた鼻を、ぐいと押しつけた。

「…あったかい」

オスカは、両手を、そのまま動かさなかった。エマが、手のひらの中で、ふん、と息を吐くたびに、オスカの肩が、少しだけ跳ねた。


夜、ウィラは、エマの横の干し草に、毛布にくるまって座っていた。

マーロウが、もう一枚、毛布を持っていった。

『父さん。牛が、箱の前に並ぶの、倍になったって』

「聞いた」

『粒、足りなくなるの?』

「…すぐじゃない。帝国の蔵には、十年ぶんあるって、書いてあったろ」

ウィラは、エマの首に、頬をつけた。

『父さんの血なら、いっぱい、作れる』

「作らない」

『分かってる。言ってみただけ』

ウィラは、目を閉じた。

『エマは、絶対、並ばせない』

「ああ」

マーロウは、ウィラの肩に、毛布をかけた。ウィラは、もう、半分、眠っていた。

エマが、大きな鼻息を、一つ吐いた。


その夜も、グレゴールは、壁の上にいた。

月が、雲から出た。

その月の前を、影が一つ、横切った。

大きな翼。背中に、人の形。

影は、壁の上を、遠く、ゆっくりと一度回った。それから、東へ、飛び去った。

グレゴールは、槍を握りしめたまま、影が消えた空を、見ていた。

『…偵察の、飛び方だ』

横にいたグロムが、低く訊いた。

「誰の」

『議会の、近衛の。…私が、教えた飛び方です』

機械が止まってから、十八日目の夜だった。

第十章 了