海壁

第十九章

手入れ係

挿絵:手入れ係

戸を押すと、軋んだ。

白い服の男は、振り向かなかった。硝子の管の前に立ったまま、言った。

「そこに、置け」

サイラスの足が、止まった。

それから、サイラスは、一歩、前に出た。

『…弁当は、ございません。父さん』

男の手が、止まった。

ゆっくり、振り向いた。背が高く、白い髪を油でうしろへ撫でつけ、丸い小さな眼鏡をかけていた。サイラスに、よく似ていた。三十年、年を取らせれば、こうなる顔だった。

「…サイラスか」

ジェローム・メレディスは、息子を見て、それから、そのうしろのマーロウを見た。

目だけが、笑った。

『一〇六番。…わざわざ、お越しいただけるとは』


「それは、何だ」

マーロウは、硝子の管を見ていた。まん中に浮いた、黒い点を。

『あなたの血です。塔の下の、ケインの椅子の窪みから、削らせていただきました』

ジェロームは、管を、いとおしそうに見上げた。

『ご存じでしょう。ケインの血は、使い切られません。この点が、ここにあるかぎり、海の水を流せば、粒が落ちます。一刻に、十二粒。…遅いですが、止まりません』

管の下の口から、また、ことり、と粒が落ちた。

『世界中の灯りが、少しずつ、消えていきます。船が、飛ばなくなります。私は、三十年、止まりかけた機械の手入れをしてきました。今度は、世界の手入れをするだけです』

「一滴にも足りん、と、ヴィクトルに言ったそうだな」

『はい。…足りないと言えば、生きたあなたを、運んでくださると思いましたので』

ミラベルが、一歩、前に出た。

その足音で、船の骨組みの陰から、男たちが、ばらばらと出てきた。十人。港の雇い兵だった。銃を構えて。

オスカが、サイラスの前に、両手を広げて立った。

「ここに、立つ」

銃が、火を噴く前に、ミラベルが、動いていた。

十本の銃が、床に落ちた。落ちる前に、全部、曲がっていた。雇い兵たちは、手首を押さえて、うずくまった。


ジェロームは、その間に、管のまん中の硝子を、一節、外していた。黒い点の浮いた、手のひらほどの筒を。

それを胸に抱えて、奥の戸へ、走った。

その前に、サイラスが立った。

『父さん。止まってください』

ジェロームは、足を止めなかった。

「どけ。おまえは、止まりかけたものを動かす手伝いを、してきたではないか。紙を運び、判を運び」

『はい』

サイラスは、父の右手の手首を、つかんだ。火傷の痕のある手を。

『ですから、今日は、止めます。…止めるのは、息子の仕事でございます』

ジェロームは、息子の顔を、見た。

長いこと、見ていた。

それから、手の力を、抜いた。

筒が、サイラスの手の中に、落ちた。


船渠の奥に、炉があった。煙の出どころだった。

マーロウは、サイラスから筒を受け取った。硝子の中で、黒い点が、小さく揺れていた。自分の、指の血だった。

炉の蓋を、開けた。

「…燃やす」

ミラベルが、横に来た。

『坊やの血、燃やすの』

「燃やす。…おれが、燃やす」

筒を、炉の火の中へ、落とした。

硝子が、赤く、それから白くなって、溶けた。黒い点は、見えなくなった。

ミラベルが、マーロウの手を、握った。

『…燃えた』

「燃やした」


ジェロームは、縄をかけられて、床に座っていた。サイラスが、その前に、立っていた。

ジェロームは、炉の火を見ていた。目は、もう、笑っていなかった。

サイラスが、父の前に、しゃがんだ。

『父さん。…母さんの石に、最後に行ったのは、いつですか』

ジェロームは、答えなかった。炉の火から、目を離さなかった。

それから、静かに、言った。

「燃やしたのは、一本目です」

マーロウが、振り向いた。

『削った血は、三つに分けました。一つが、今の。一つは、この港の長に、売りました。…もう一つは』

ジェロームは、北のほうへ、目を向けた。

『北の、氷の下の海へ、運ばせました。あそこの海は、誰も、見張っておりませんので』

機械が止まってから、二十九日目の夜だった。

第十九章 了