海壁

第三十三章

ケインの子へ

挿絵:ケインの子へ

朝になっても、孤独の大地は、静かだった。

けれど、ゆうべとは、違う静かさだった。

白い道の上に、人が出てきていた。白い服の人たちが、何百人も。誰かに言われて並んだのではなかった。名前を呼ばれて、窓から、自分で出てきたのだった。

アディとエミルは、夜通し、名前を呼んでいた。二人とも、声が、すっかりかすれていた。

ペトラが、道の端に座って、膝を叩いていた。

『千二百、四十、…まだ、います』

ロズリンが、その横で、筆を走らせていた。数ではなく、名前を。


塔の石段で、ミラベルが、マーロウの顔を覗きこんでいた。

『ミラベル・グリム・ケインです』

「知ってる」

『本部が、記録した名前です』

ミラベルは、胸を張った。

マーロウは、鉤で、左の人差し指を突いた。一滴を、ミラベルの唇に。もう一滴を、横で待っていたオスカの唇に。

『おはよう、ミラベル』

「おはよう、オスカ」

ミラが、その下の段で、一の粒を一つ、噛んでいた。

ウィラが、石段を駆け上がってきた。

『父さん! ロズリンの板、光らないって!』

ロズリンが、あとから上がってきた。硝子の板を、両手で持っていた。

板は、ただの硝子だった。何も映さず、何も言わなかった。

『…もう、答えてくれる人は、いません』

ロズリンは、少しだけ、寂しそうに言った。それから、板を、帳面と一緒に、鞄にしまった。

『でも、持って帰ります。書いたものは、残すのが、私の仕事ですから』


昼、ドラグが、みんなを集めた。

『帰りの段取りだ』

提督の船は、畑へ。十二の家の者を、畑へ送り届ける。畑では、ネルとティルダが、待っている。

帝国の船は、海壁の街へ。ルーカスと、ウィラと、マーロウたちを乗せて。

エミルとヘルガは、提督の船で、途中で東の谷に降りる。

「白い服の者は」

マーロウが言うと、アディが答えた。

『ここに、残ると言う者も、おります。…自分で、そう言いました。初めて、自分で』

ヘルミーナが、腕を組んだ。

『覚えの言葉の、五つ目だ。機械が止まったら、ブラックウッドの子が、水を戻す。…ヨアの子を、ここにも、連れてきてやらなきゃね』

ヨナスが、うなずいた。

『畑に戻ったら、ヨアに、頼んでみます。…子を、もう一つ』

ミラベルが、手を叩いた。

「ここ、水の出る土地になるの?」

『何百年、かかっても、ね』

ヘルミーナが、言った。

『婆さまの、婆さまの、そのまた婆さまが、そう言った』


夕方、帰る前に、マーロウは、もう一度、塔の下の部屋へ降りた。

ミラベルが、ついてきた。ロズリンも、帳面を持って、ついてきた。部屋の形を、書き残しておきたい、と言って。

部屋は、暗かった。ロズリンが、灯りを一つ、点けた。

十二の椅子が、輪になって、並んでいた。どの窪みにも、もう、光はなかった。

マーロウは、ケインの椅子の前に立った。

きのう、自分の指の血を当てた窪み。

その窪みの下に、細い、四角い隙間が、開いていた。

きのうは、なかった隙間だった。

「…ロズリン」

ロズリンが、灯りを近づけた。

隙間の奥に、薄い金属の板が、一枚、差しこまれていた。

マーロウは、指先で、それを引き出した。

手のひらほどの、錆びない金属の板だった。表に、細い線で、字が刻まれていた。

ロズリンが、息をのんだ。

『…いちばん下に、名前が、刻んであります』

ロズリンの声が、震えていた。

『エリス・ケイン』

マーロウは、灯りの下で、最初の一行を、読んだ。

ケインの子へ。

その下に、もう一行。

機械が止まったら、読みなさい。

ミラベルが、マーロウの袖を、そっとつかんだ。

マーロウは、板を、灯りのほうへ、少しだけ傾けた。

三行目を、読みはじめた。

二年のうちの、百二十九日目だった。

第三十三章 了

第九巻 了

第九巻の終わり 人物相関図
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