
第一章
灯り呑み

帝国の灰色の船が海壁の街を発って、二度目の夜だった。
船の腹から、白い光が漏れていた。何万粒もの粒で浮いている船の、腹の灯りだった。その光が、はるか下の乾いた土地に丸く落ちて、船と一緒に東へ滑っていた。
ミラベルは、甲板の手すりに腰かけて、足をぶらぶらさせていた。
『坊や。星、数えよ』
「数えない」
『じゃあ、あたしが数える。いち、に、さん…』
ミラベルの声が、止まった。
『…星が、消えた』
東の空で、星が、一つずつ消えていた。
「…雲じゃないな」
雲なら、端がぼやける。星の消えていく形は、くっきりしていた。空に、大きな布を広げたように。
その布が、音もなく、こちらへ降りてきていた。
舳先で、ミラが振り向いた。金属の目が、闇の中で細く光った。
『何か、来る。薄い。濡れてる。…差し渡し、四十メートル』
「ミラ、下がれ」
船室の戸が開いて、ヴァルター・ブラントが飛び出してきた。
『甲板の灯りを消せ! 全部だ!』
兵たちが、灯りに次々と布をかぶせた。
『…来たか。灯り呑みだ。灯りに寄ってきて、呑む』
ヴァルターは、空をにらんだまま言った。
『この船の砲が空を向いていたのは、礼儀ではない。上から来るからだ』
冷たい風が、甲板を撫でた。濡れた塩の匂い。透きとおった布が船の真上を通りすぎ、縁をなめるように回りこんで、下へ消えた。
船が、ぐらりと傾いた。腹の白い光が、薄くなっていく。
『腹の粒を、呑まれている』
船が、がくんと沈んだ。
ミラベルは、もう手すりを越えていた。金属の左手で船の縁をつかみ、腹の下へぶら下がった。
腹に、紙のように薄い布が、べったりと貼りついていた。裏側が、ぬらぬらと濡れている。布の中が、粒の光を吸って、ぼんやり白く光っていた。
右の手で端をつかみ、引き剥がした。布は、あっけなく裂けた。
裂けた切れ端は、落ちなかった。濡れた布きれのように腹を這って、また貼りついた。
「やだ、これ! ちぎっても、ちぎっても、くっつく!」
甲板に、セラフィナ・ロウが出てきた。
『裂いても、切れ端が、灯りを呑みます。帝都では、ふた月、これと戦っております』
いつもと同じ、表情のない声だった。
『包まれても、息が詰まるだけです。濡れているのは、あれの体の水で、海の水ではございません』
船室の中で、悲鳴が上がった。
「エステルか」
船室の灯りは、全部覆われていた。残っているのは、エステルが胸に抱えている灯り一つ。中で、一の粒が白く光っている。
ミラが、手すりから身を乗り出していた。
『切れ端が、みんな、あっちへ行く。…エステルの灯り』
十あまりの切れ端が、何万粒の腹の光には目もくれずに、船室の小さな窓のほうへ這っていた。
この系統の血で作った粒は、市場のゆるんだ粒より、漏れが太い。ベルが、前にそう言っていた。
「…兄貴の粒のほうが、うまいのか」
マーロウは、船室へ走った。
隅で、ウィラがエステルを抱えていた。窓の硝子に、濡れた布が、ぺたりと貼りついた。
「エステル。その灯り、貸してくれ」
『やだ…。暗いの、やだ…』
ウィラが、エステルの手の上に、自分の手を重ねた。
「暗いとこには、あたしが、一緒にいる」
エステルの指が、少しずつ、灯りから離れた。
すぐ返す、とだけ言って、マーロウは灯りを受け取った。船室が真っ暗になった。暗がりの中で、ウィラが歌いはじめた。調子の外れた、子守唄だった。
舳先で、マーロウは灯りを高く掲げた。
腹の下から、切れ端がいっせいに這い上がってきた。手すりを越え、甲板を這って、マーロウの足もとへ。途中で兵の顔に貼りついた一枚を、ドラグが素手で剥がして叩きつけた。
最後に、大きな一枚が船の縁からめくれ上がり、空にふわりと広がって、灯りごとマーロウの上に落ちてきた。
冷たかった。塩の匂いで、息ができない。布の中で、灯りが薄くなっていく。
マーロウは、鉤で左の手のひらを突いた。血の出た手のひらを、布の濡れた裏側に押しつけた。
押しつけたところから、布が白くなった。白さがみるみる広がり、布は固く乾いて、薄い塩の板のようにひび割れた。
ぱらぱらと、崩れた。甲板に、粒が一つ転がった。
崩れた布の向こうから、ミラベルの顔が覗いた。
「坊やに、触らないで。…紙でも」
ミラベルは、マーロウに貼りついた切れ端を片っぱしから剥がして、その手のひらに押しつけていった。押しつけるたびに白く崩れ、粒が一つ転がった。
ロズリンが、帳面を抱えて数えていた。
『十一。…十二』
甲板に、粒が十二、並んだ。
眼鏡を押し上げて、ロズリンは言った。
『一枚の体の水は、桶一杯より、少ないのです。ですから、一度触れれば、一枚全部が乾きます』
足もとで、腹の光が、また白く明るくなった。
船室へ戻ると、エステルは、ウィラの膝で半分眠っていた。
灯りを胸に戻すと、エステルは、目をつむったまま、それを抱いてつぶやいた。
『…へたくそ』
「父さん譲り。…ハロルドのほうの」
ウィラが、笑った。
戸口に、セラフィナが立っていた。
『娘に、歌を。…ありがとうございます』
表情は、動かなかった。戸の枠を握る指だけが、白くなっていた。
甲板で、ミラベルが、マーロウの左の手のひらを両手で包んでいた。
『今日、二本目』
「一日二本だろ。守ってる」
ミラベルは口をとがらせて、傷に唇をつけた。
『…守ってる。えらい』
「えらいのは、おまえだ。ちぎっても、ちぎっても、離さなかった」
ミラベルが、マーロウの肩に、ごつんと額をぶつけた。照れると、そうする。
ウィラが、横に並んだ。
『連れてきて、よかったでしょ』
「…ああ」
発つ前の晩、ウィラは、帝都へ行くと言った。父さんを施療所で売った国の、いちばん上の人の顔が見たい、と。
マーロウは、止めなかった。置いていけば、ウィラはまた壁のいちばん前で待つ。待っているあいだに、誰かがいなくなる。それを、もう、この子にやらせたくなかった。
ヴァルターが、東の空を見ていた。
『帝都は、日が暮れると、家々の灯りを消す。ふた月前から、毎晩だ。…あれは、帝都には、群れで来る』
「何枚くらい?」
ミラベルが訊いた。
『数えた者は、いない』
二年のうちの、百日目だった。
第一章 了