海壁
第八巻の終わり 人物相関図
第八巻の終わり 人物相関図

第一章

灯り呑み

挿絵:灯り呑み

帝国の灰色の船が海壁の街を発って、二度目の夜だった。

船の腹から、白い光が漏れていた。何万粒もの粒で浮いている船の、腹の灯りだった。その光が、はるか下の乾いた土地に丸く落ちて、船と一緒に東へ滑っていた。

ミラベルは、甲板の手すりに腰かけて、足をぶらぶらさせていた。

『坊や。星、数えよ』

「数えない」

『じゃあ、あたしが数える。いち、に、さん…』

ミラベルの声が、止まった。

『…星が、消えた』

東の空で、星が、一つずつ消えていた。

「…雲じゃないな」

雲なら、端がぼやける。星の消えていく形は、くっきりしていた。空に、大きな布を広げたように。

その布が、音もなく、こちらへ降りてきていた。


舳先で、ミラが振り向いた。金属の目が、闇の中で細く光った。

『何か、来る。薄い。濡れてる。…差し渡し、四十メートル』

「ミラ、下がれ」

船室の戸が開いて、ヴァルター・ブラントが飛び出してきた。

『甲板の灯りを消せ! 全部だ!』

兵たちが、灯りに次々と布をかぶせた。

『…来たか。灯り呑みだ。灯りに寄ってきて、呑む』

ヴァルターは、空をにらんだまま言った。

『この船の砲が空を向いていたのは、礼儀ではない。上から来るからだ』

冷たい風が、甲板を撫でた。濡れた塩の匂い。透きとおった布が船の真上を通りすぎ、縁をなめるように回りこんで、下へ消えた。

船が、ぐらりと傾いた。腹の白い光が、薄くなっていく。

『腹の粒を、呑まれている』

船が、がくんと沈んだ。

ミラベルは、もう手すりを越えていた。金属の左手で船の縁をつかみ、腹の下へぶら下がった。

腹に、紙のように薄い布が、べったりと貼りついていた。裏側が、ぬらぬらと濡れている。布の中が、粒の光を吸って、ぼんやり白く光っていた。

右の手で端をつかみ、引き剥がした。布は、あっけなく裂けた。

裂けた切れ端は、落ちなかった。濡れた布きれのように腹を這って、また貼りついた。

「やだ、これ! ちぎっても、ちぎっても、くっつく!」

甲板に、セラフィナ・ロウが出てきた。

『裂いても、切れ端が、灯りを呑みます。帝都では、ふた月、これと戦っております』

いつもと同じ、表情のない声だった。

『包まれても、息が詰まるだけです。濡れているのは、あれの体の水で、海の水ではございません』

船室の中で、悲鳴が上がった。

「エステルか」

船室の灯りは、全部覆われていた。残っているのは、エステルが胸に抱えている灯り一つ。中で、一の粒が白く光っている。

ミラが、手すりから身を乗り出していた。

『切れ端が、みんな、あっちへ行く。…エステルの灯り』

十あまりの切れ端が、何万粒の腹の光には目もくれずに、船室の小さな窓のほうへ這っていた。

この系統の血で作った粒は、市場のゆるんだ粒より、漏れが太い。ベルが、前にそう言っていた。

「…兄貴の粒のほうが、うまいのか」

マーロウは、船室へ走った。


隅で、ウィラがエステルを抱えていた。窓の硝子に、濡れた布が、ぺたりと貼りついた。

「エステル。その灯り、貸してくれ」

『やだ…。暗いの、やだ…』

ウィラが、エステルの手の上に、自分の手を重ねた。

「暗いとこには、あたしが、一緒にいる」

エステルの指が、少しずつ、灯りから離れた。

すぐ返す、とだけ言って、マーロウは灯りを受け取った。船室が真っ暗になった。暗がりの中で、ウィラが歌いはじめた。調子の外れた、子守唄だった。

舳先で、マーロウは灯りを高く掲げた。

腹の下から、切れ端がいっせいに這い上がってきた。手すりを越え、甲板を這って、マーロウの足もとへ。途中で兵の顔に貼りついた一枚を、ドラグが素手で剥がして叩きつけた。

最後に、大きな一枚が船の縁からめくれ上がり、空にふわりと広がって、灯りごとマーロウの上に落ちてきた。

冷たかった。塩の匂いで、息ができない。布の中で、灯りが薄くなっていく。

マーロウは、鉤で左の手のひらを突いた。血の出た手のひらを、布の濡れた裏側に押しつけた。

押しつけたところから、布が白くなった。白さがみるみる広がり、布は固く乾いて、薄い塩の板のようにひび割れた。

ぱらぱらと、崩れた。甲板に、粒が一つ転がった。

崩れた布の向こうから、ミラベルの顔が覗いた。

「坊やに、触らないで。…紙でも」

ミラベルは、マーロウに貼りついた切れ端を片っぱしから剥がして、その手のひらに押しつけていった。押しつけるたびに白く崩れ、粒が一つ転がった。

ロズリンが、帳面を抱えて数えていた。

『十一。…十二』

甲板に、粒が十二、並んだ。

眼鏡を押し上げて、ロズリンは言った。

『一枚の体の水は、桶一杯より、少ないのです。ですから、一度触れれば、一枚全部が乾きます』

足もとで、腹の光が、また白く明るくなった。

船室へ戻ると、エステルは、ウィラの膝で半分眠っていた。

灯りを胸に戻すと、エステルは、目をつむったまま、それを抱いてつぶやいた。

『…へたくそ』

「父さん譲り。…ハロルドのほうの」

ウィラが、笑った。

戸口に、セラフィナが立っていた。

『娘に、歌を。…ありがとうございます』

表情は、動かなかった。戸の枠を握る指だけが、白くなっていた。


甲板で、ミラベルが、マーロウの左の手のひらを両手で包んでいた。

『今日、二本目』

「一日二本だろ。守ってる」

ミラベルは口をとがらせて、傷に唇をつけた。

『…守ってる。えらい』

「えらいのは、おまえだ。ちぎっても、ちぎっても、離さなかった」

ミラベルが、マーロウの肩に、ごつんと額をぶつけた。照れると、そうする。

ウィラが、横に並んだ。

『連れてきて、よかったでしょ』

「…ああ」

発つ前の晩、ウィラは、帝都へ行くと言った。父さんを施療所で売った国の、いちばん上の人の顔が見たい、と。

マーロウは、止めなかった。置いていけば、ウィラはまた壁のいちばん前で待つ。待っているあいだに、誰かがいなくなる。それを、もう、この子にやらせたくなかった。

ヴァルターが、東の空を見ていた。

『帝都は、日が暮れると、家々の灯りを消す。ふた月前から、毎晩だ。…あれは、帝都には、群れで来る』

「何枚くらい?」

ミラベルが訊いた。

『数えた者は、いない』

二年のうちの、百日目だった。

第一章 了