海壁

第二十五章

湧く

挿絵:湧く

夜明け前、東の列の地面が、ふくらんだ。

光る草が、根ごと持ち上がって、傾いた。寝ている人たちの胸の管が、ぴんと張った。

「管を外せ! その列、全部だ!」

マーロウが叫んだ。ティルダの兵と、施療所の兵だった男たちが、走った。眠っている人を、一人ずつ抱えて、西の列へ運んでいく。

地面が、割れた。

割れ目から、水が湧いた。

澄んだ水だった。月の光を映して、光る草の根元に、音もなく広がっていった。

そして、水の中から、それが、せり上がってきた。


白かった。

透きとおった、白いもの。牛を十頭並べたほどの大きさで、形が、はっきりしなかった。水の中で、ゆっくり、ふくらんだり、しぼんだりしていた。腹の奥で、青い光が、心臓の音のように脈打っていた。

体の下から、白い根のようなものが、何十本も伸びて、水の中を探っていた。

根の一本が、割れた殻の山に触れた。四日前の夜の鐘鳴きからこぼれた、粒の山だった。

根が、粒を、包んだ。

白い体の中で、粒が、ゆっくり透きとおって、溶けていった。

それから、白いものが、ふうっと、しぼんだ。

体のまわりから、水が、あふれた。

『…粒を、水に、戻してる』

ロズリンが、言った。声が、かすれていた。

『ヘルミーナさんの、覚えの言葉の、とおりです』


水が、広がっていた。西の列のほうへ。まだ、眠っている人たちのほうへ。

マーロウは、しゃがんで、指先の血を、一滴、水に落とした。

水が、桶一杯ぶん消えて、粒が一つ、転がった。

「生き物を通った水だ」

ロズリンが、うなずいた。

『海の水と同じかどうか、まだ、分かりません。分からないうちは、人を、浸けません』

「オークは、平気だ」

ドラグが、上着を脱いだ。そばにいたオークの男たちも、それに続いた。水の中に入って、手で、水の行く先を、せき止めようとした。

けれど、水は、止まらなかった。白いものが、粒を溶かすたびに、湧いてくる。

「水路は」

『あります』

ティルダが、帳面をめくった。

『畑の南の端に、昔の石の水路がございます。三百年、使っておりません。水門の輪が、錆びついて、どなたにも回せませんでした』


畑の南の端に、石の水路が、口を開けていた。

その入口に、鉄の輪が一つ、立っていた。人の背丈ほどの、大きな輪だった。赤く錆びて、石の台に、張りついていた。

ドラグが、輪をつかんで、肩を入れた。

動かなかった。

オークの男が三人、加わった。

輪は、きしみもしなかった。

そのとき、一人の女が、ドラグの横に来た。

二百八十九名の一人。人間の、五十くらいの女だった。丸い体つきで、腕が太い。灰色の髪を、布で包んでいた。

女は、錆びた輪に、両手を当てた。

『ちょっと、どいとくれ』

ドラグが、一歩、下がった。

女は、輪を、ゆっくり回した。

錆が、ばらばらと落ちた。輪が、回った。重さなど、ないように。

水門が、上がった。

東から広がってきた水が、向きを変えた。眠っている人の列を離れて、石の水路のほうへ、まっすぐ流れこんでいった。

ロズリンの抱えた板が、光った。

『ミルバーンの手を、確認しました。十二のうち、十』

「あと、二!」

ミラベルが、叫んだ。

女は、錆で赤くなった手を、前掛けで拭いた。

『ベルタ・ミルバーンだよ。うちは、粉挽きの家でね。水車を、代々、回してきた』

ベルタは、回った輪を、ぽんと叩いた。

『回らないものを回すのが、うちの家の手なんだ。…誰にも、言われちゃいないよ。水が、寝てる人のほうへ行くのが、見てられなかっただけさ』


白いものは、湧いた水の真ん中で、ふくらんだり、しぼんだりしていた。

ヨナスが、水の縁に、膝をついていた。

「ヨナス、水に入るな」

『入りません。…この子のほうから、来ました』

白い根が一本、水の中から、ヨナスのほうへ伸びてきていた。ヨナスは、その根に、そっと手を当てた。草の根の機嫌を見るときと、同じ手つきで。

白い体の、青い光が、ゆっくりになった。

『…この子、ずっと、暗いところに、いました』

ヨナスは、目を閉じていた。

『一人で。長いこと。…起きたら、誰かの手を、探すように、言われていた』

それから、目を開けた。

『うちの手を、探してたんです』

ロズリンの抱えた板が、また、光った。

今度は、誰も、何も、訊いていなかった。

『三番』

平らな声だった。

『その生き物を、壊しなさい。…私の計算を、壊すものです』

小屋の戸口で、オスカが、ゆっくり、立ち上がった。

二年のうちの、百十八日目の朝だった。

第二十五章 了