海壁

第六章

親

挿絵:親

夜が来ても、星は、一つも出なかった。

空が、まるごと、黒い布になっていた。灯り呑みの親は、差し渡しが一キロを超えていた。丘の上の宮殿も、四角い城壁も、その下にすっぽり入った。

帝都の家々は、灯りを消していた。ただ一つ、塔のてっぺんに、灯りがあった。

今夜の灯りは、一つではなかった。

マーロウが、露台の真ん中に立って、腰の革袋の口を開けていた。一の粒が、五百八十四。刻印のない粒が、袋の中で、いっせいに白く光った。

その横で、皇帝が、自分の灯りを抱えて立っていた。腰は曲がっていたが、下がろうとはしなかった。

『ふた月、ここで、餌をやってきた。今夜だけ、よそで見てろ、ってのは、なしだよ』

「好きにしろ」

『そうするさ』

塔の下の部屋では、エステルの灯りを黒い布でくるんで、ウィラが抱いていた。今夜は、エステルも、暗い部屋にいる。ウィラの調子の外れた歌が、階段の下から、かすかに聞こえていた。


黒い空が、降りてきた。

真ん中が、塔に吸い寄せられて、たわんだ。濡れた塩の匂いが、露台に満ちた。

ミラが、手すりの上に立って、金属の目で上を見ていた。

『真ん中。塔の、真上。…光ってる塊。濡れてる。牛、二頭ぶん』

「芯だ」

ロズリンが写した絵と、同じだった。

そのとき、露台の下で、ヴァルターが叫んだ。

『端が、南の区に垂れている!』

マーロウは、手すりから身を乗り出した。

親は大きすぎた。真ん中が塔へたわんだぶん、端が、丘のふもとの屋根に、べったりと垂れ下がっていた。屋根ごと包まれれば、中の者は息ができない。

『南のふもとには、親のない子の家がございます』

セラフィナの声だった。いつもと同じ声だった。

セラフィナは、腰の小袋から粒を一つ取り出して、指先にのせた。手袋は、していなかった。粒を、舌で濡らした。

指先から、細い光の糸が、まっすぐ空へ伸びた。

帝都でいちばん明るい線だった。垂れ下がっていた端が、ゆっくり、糸のほうへ持ち上がった。屋根から、剥がれていく。

セラフィナの右の人差し指の先が、赤く焼けていた。それでも、糸は、揺れなかった。

『…名代の手は、こういうことに、使うものです』

ヴァルターが、黙って、その肘の下を支えた。


親の真ん中が、塔のてっぺんの、五十メートル上まで降りてきていた。

芯が、真上に見えた。濡れて、白く光る塊。中で、昔の粒が、何千と、ゆっくりほどけている。

マーロウは、鉤で、左の手のひらを突いた。

「ミラベル」

『うん』

ミラベルは、マーロウの手のひらに、唇をつけた。二滴目だった。

金属の目が、白く光った。

『…行ってくる』

露台の石が、丸く砕けた。

ミラベルは、真上へ跳んでいた。濡れた布の天井を、頭から突き破った。裂けた布が、雨のように降った。ミラベルは、芯に、両腕でしがみついた。

布の天井の中で、何かが、きしんだ。親が、身をよじっていた。

ミラベルは、芯を、両腕で抱えたまま、布ごと引きちぎった。

そして、落ちてきた。

牛二頭ぶんの、濡れた塊を抱えて、塔のてっぺんへ。

露台が、揺れた。ドラグが、ロズリンを背中にかばって、踏ん張った。

『坊や! 今!』

マーロウは、血の手のひらを、芯に押しつけた。

押しつけたところから、白くなった。けれど、白さは、少し広がって止まった。芯の水は、桶一杯より、ずっと多かった。

粒が、一つ、転がった。

もう一度。また一つ。

『三つ。四つ』

ミラベルが、芯を押さえつけたまま、数えた。芯が、ミラベルの腕の中で、暴れた。濡れた肉が、ミラベルの頬に貼りついた。

『五つ。…六つ』

皇帝が、灯りを掲げたまま、マーロウの横に、一歩、出た。下がらなかった。

親の布が、残った光を求めて、露台へ垂れてきた。皇帝の小さな体が、布の影に入った。

『七つ。八つ。…九つ!』

芯が、真っ白になった。

固くなり、乾いて、ひび割れた。ミラベルの腕の中で、塩の岩のように、崩れた。


空が、白くなった。

真ん中から、外へ。黒い布が、白い輪になって、どんどん広がっていった。白くなったところから、固く乾いて、ひび割れていく。

一キロの布が、ほどけるように、崩れた。

帝都じゅうに、白いかけらが、降った。

雪のようだった。屋根に、通りに、城壁に。暗い帝都の上に、音もなく、塩の雪が降った。そのあいだに、からからと、粒の落ちる音が混じった。

丘のふもとの屋根から、垂れていた端も、白く崩れた。

セラフィナが、糸を消した。焼けた指を、胸に抱えて、膝をついた。

皇帝の上に垂れていた布も、白くなって、皇帝の頭の上で、ぱらぱらと崩れた。皇帝は、かけらを、頭のひとふさの毛から払いもせずに、空を見上げていた。

『…星だ』

雲のない夜空に、星が、ひとつ、またひとつと、戻ってきていた。


ミラベルが、露台の上に、仰向けに倒れていた。唇が、白く乾いていた。

マーロウは、手のひらの血を、その唇に落とした。三滴目だった。

ミラベルが、目を開けた。

『…坊や、いる?』

「いる」

『芯、重かった。牛、二頭。ほんとに、二頭だった』

「ミラが、そう言った」

『ミラ、えらい』

ミラが、手すりの上で、木の指を一度、開いて閉じた。

ミラベルは、マーロウの顔を見上げて、へへ、と笑った。

『坊やの手、今日、何回』

「朝の一本と、今の一本。…二本だ」

『じゃあ、あたしが、九回ぶん、ちゅうする。粒のぶん』

「数えるな」

『数えるの』

塔の下の暗い街で、どこかの窓に、灯りが一つ、点いた。

また一つ。また一つ。

ふた月ぶりに、帝都の窓に、灯りが戻りはじめていた。

二年のうちの、百三日目の夜だった。

第六章 了