第十一章
一滴

手は、マリエを、屋根より高く持ち上げていた。
ティルダが、その人差し指に、両腕でしがみついたまま、宙に浮いていた。灰色の外套の裾が、はためいていた。
『放しなさい! …放しなさい!』
監督官の、きっちりした声ではなかった。ただの、母親の声だった。
マーロウは、手の手首に跳びついた。
手のひらの硝子の目の下に、水の管が通っていた。そこだけ、金属が薄く、濡れて光っている。マーロウは、血の出た手のひらを、そこに押しつけた。
管の中の水が、粒になった。からん、と音がした。
硝子の目の光が、弱まった。指が、ゆるんだ。
マリエが、指のあいだから落ちた。ティルダも、一緒に落ちた。
下で、ドラグが、二人まとめて、受けとめた。
「…重いのう。二人ぶんは」
『申し訳ございません』
ティルダは、ドラグの腕の中で、娘を抱えたまま、そう言った。それから、娘の顔を、両手で挟んだ。
『マリエ。…怪我は』
「…ない。おかあさん」
小屋の向こうでは、ネルとミラが、倒れた手の手首に並んで跳びついていた。ミラが、溝のある木の指で、筋を二本、もう一度交差させる。ネルが、銅の針金を巻いて、右に三回ねじる。手の指が、開いたまま、閉じなくなった。
オーウェンが、杖にもたれて、それを見ていた。
『…うちの手だ。二人とも』
船の腹の戸口には、ベアタが立っていた。ヴァルターが、その前に立ちふさがっていた。
畑の真ん中で、灰色の服の男たちが、腕を組んで、手の前に列を作っていた。噛む兵だった、三百九十一人の一部だった。腰の粒の袋は、もう下げていない。
『…あれは、わたしの兵だった』
ベアタが、つぶやいた。
「今は、畑の兵です、陛下」
ヴァルターが、前を向いたまま、答えた。
二本目の手が、横から来ていた。
マーロウは、振り向いた。手の指が、目の前に迫っていた。白い線は撃ってこない。マーロウだけは、狙わないように作ってある。
指は、マーロウの体ではなく、血の出ている左の手のひらを、弾いた。痛みはなかった。マーロウは、痛みを感じない。
血が、飛んだ。
赤い粒が、いくつも、宙に散った。
その先に、荷車があった。
本部の荷車の、二台目。いつの間にか、小屋の裏まで来ていた。荷台を覆っていた布を、三本目の手が、剥がしたところだった。
荷台に、白い、細長い箱があった。蓋が、開いていた。
三本目の手が、その箱を、両手で立てて、マーロウのほうへ傾けていた。
飛んだ血の、ひとしずくが、箱の中へ落ちた。
箱の中に、女が一人、眠っていた。
白い、薄い服。灰色の髪が、切られたことがないように長く、腰の下まで伸びていた。両腕の肘から先が、錆びない金属だった。
血のひとしずくは、女の唇に、落ちていた。
マーロウは、その顔を見た。
知っている顔だった。
毎朝、藁の上から、自分を覗きこむ顔だった。
「…ミラベル」
違う。ミラベルは、東の列にいる。
ロズリンの抱えた硝子の板が、光った。
『一滴を、いただきました』
平らな声だった。
ロズリンの顔から、血の気が引いた。
「…最初から、これだったのですね」
ロズリンは、板を抱きしめるようにして、言った。
「手が、人をつかんだのは、十二の家の者を運ぶためではなかった。あなたを走らせて、血を流させるため。…十二本の手は、全部、この一滴のために」
『はい』
板は、嘘をつかなかった。
『一〇六番は、毎日、血を流します。流させる場所を、選びました』
東の列から、ミラベルが、走ってきていた。
燃えている草を飛び越えて、倒れた手をまたいで。いつもより、ずっと速かった。
『坊や!』
ミラベルは、マーロウの前に着地した。
そして、止まった。
箱の中の女が、目を開けていた。
右の目は、茶色だった。左の目は、色のない、磨いた金属だった。瞬きを、しなかった。
女は、箱の縁に、金属の両手をかけて、ゆっくり、体を起こした。長い灰色の髪が、肩から滑り落ちた。
ミラベルと、同じ顔だった。同じ背丈。同じ唇。
その唇の、赤い一滴を、女は舌で舐めた。
「…あたしの、顔」
ミラベルが、つぶやいた。
女は、ミラベルを見なかった。マーロウだけを、見ていた。
そして、ミラベルと同じ声で、言った。
『…おはよう、坊や』
二年のうちの、百十一日目だった。
第十一章 了