海壁

第二十一章

言いに行く

挿絵:言いに行く

朝、マーロウは、左の人差し指を突いた。

一滴を、ミラベルの唇に。もう一滴を、オスカの唇に。ミラベルが、マーロウの手首を持って、運んだ。

『おはよう、ミラベル』

「おはよう、オスカ」

二人とも、同じ顔で、少し違う笑い方をした。


昼前、ウィラが、マーロウの前に立った。

背中に、小さな荷を背負っていた。

『帰る』

マーロウは、黙って、ウィラを見た。

『ベアタさんの船で、帝都に寄って、エステルに会って、それから、海壁の街に帰る。施療所の触れは、もう、全部に届いたでしょ。父さんと母さんの石に、言いに行く』

ウィラは、まっすぐ、マーロウを見上げた。

『待つんじゃないよ。言いに行くの。…あたしが、自分で』

マーロウは、しばらく、何も言えなかった。

十二の家の者は、あと五つ。マーロウは、畑を離れられない。ウィラは、それを分かって言っていた。

「…ベルに、杭の数字、聞いといてくれ」

『うん』

「ミアに、書いとけって言え。全部」

『言われなくても、書いてるよ。ミアだもん』

マーロウは、ウィラの頭に、手を置いた。十八度目だった。

ウィラは、振り払わなかった。少しして、マーロウの顔を見上げた。

『父さん、泣いてる?』

「泣いてない」

『うそ』

「…少しだ」

ミラベルが、横から、ウィラに抱きついた。二人とも、草の上に転がった。

『嬢ちゃん、ガスに、乾杯は三回って、言っといて!』

「自分で言いなよ。帰ってきて」

『帰る! 五つ、そろえたら!』


昼過ぎ、ロズリンが、小屋の前で、一人の女と並んで座っていた。

二百八十九名の一人。人間の、二十そこそこの女だった。小柄で、栗色の髪を、耳の上で短く切っている。指の先で、膝を、ずっと叩いていた。マーロウは、その指の動きが、嫌いではなかった。

『ペトラ・ラングレーさんです』

ロズリンが、マーロウに言った。声が、弾んでいた。

『ゆうべの、大きな殻から出た粒を、全部、数えていたのです。一人で。朝まで』

ペトラは、マーロウを見ずに、言った。

『四千二百十一』

指で、膝を、四回叩いた。

『小さい殻が、七つで、三百八十。…足すと、四千五百九十一』

「数えなくても、よかったろ」

『数えないと、落ち着かないんです』

ペトラは、少しだけ、困った顔をした。

『変わっていたあいだも、ずっと、数えていました。豆も、星も、足音も。…何のためかは、分かりませんでした』

ロズリンが、ペトラの帳面を、覗きこんでいた。細かい数字が、びっしり並んでいた。

「数は、名前を数えれば出ます。でも、数えてくれる人がいないと、名前も、いつか、なくなります」

ロズリンは、帳面を、ペトラに返した。

「あなたの数は、全部、正しいです。…私が、確かめました」

ペトラが、初めて、マーロウのほうを見た。目が、少しだけ、潤んでいた。


夕方、提督のところに、翼の兵が一騎、降りてきた。

提督は、紙を読んで、顔をしかめた。そのまま、議長に渡した。

議長の手が、紙の上で、震えた。いつもより、大きく。

『…あの四人め』

「何だ」

マーロウが、訊いた。

提督が、答えた。

『議会の残りの四人が、自分たちの船を、四隻、出した。皇帝を捕らえて、帝国と取引する気だ。…明日の朝、ここに着く』

ベアタが、一の墓の前で、ゆっくり立ち上がった。

『なら、わたしが、船に乗っていけば、済むね』

「だめ」

ウィラが、言った。

ベアタが、振り向いた。

「ベアタさんが、いちばん前に立つの、やだ。…あたしも、ずっと、いちばん前に立ってたけど、立たれる側になったら、分かった。やだ」

ベアタは、しばらく、ウィラを見ていた。

『…あんたに、言われるとはね』

それから、黄色い目を、少し細めた。

『じゃあ、どうする』

「予定どおり、明日の朝、発つ」

マーロウが、言った。

「四隻が来たら、追い払う。…こっちには、一番強いのが、二人いる」

ミラベルが、胸を張った。オスカが、それを見て、同じように、胸を張った。


夜、ペトラが、畑の南の端に立って、空を見ていた。

指で、膝を叩いていた。

ロズリンが、横に来た。

「星ですか」

『いいえ』

ペトラは、南の暗い空を、指さした。地平線の、少し上。

『灯りです。動いています。…四つ』

それから、指が、止まった。

『…五つ。一つだけ、北から』

二年のうちの、百十五日目だった。

第二十一章 了