海壁

第十七章

売った者と、買った者

挿絵:売った者と、買った者

一の墓の前に、木箱が二つ置かれた。

ベアタと議長が、そこに向かい合って座った。二人とも、自分で座った。ヴァルターも提督も、手を貸そうとして、払われた。

ティルダが、帳面を開いて、横に立った。ロズリンが、その隣で、自分の帳面を開いた。

『お二人で、お書きになるのでございますか』

ティルダが、ロズリンに訊いた。

「はい。間違いに気づくのは、たいてい、二人目ですから」

ドラグが、ロズリンの後ろで、墨壺を持って立っていた。頼まれてもいないのに。


議長が、先に口を開いた。

『この墓の男は、畑を守って死んだと聞いた』

議長は、板に「一」とだけ書かれた墓を、濁った目で見ていた。

『鐘鳴きを七頭、荒れ地へ引き離して。…議会は、まだ、礼を言っておらん』

マーロウは、少し離れて、それを聞いていた。

「おれの兄貴だ」

議長が、振り向いた。

「一っていう。名前は、それだけだ」

議長は、しばらくマーロウを見ていた。それから、墓に向き直って、震える手を、膝の上で組んだ。

『…礼を言う。遅くなった』


『帝国の施療所は、三十八、止めた』

ベアタが、言った。

『早馬で、十日で、全部に届く。売る者は、もういないよ』

議長は、うなずいた。

「なら、買う者も、やめる」

議長は、懐から、封をした紙を一枚出した。震える手で、封を切った。

「都を出る前の晩に、議会に通させた。九人のうち、五人でな。…畑の者を、売り物の数に入れるのは、今日でやめる。変換器にも、二度と入れん」

ティルダが、それを読んで、帳面に写した。ロズリンも、写した。

ベアタは、紙を見て、それから、議長の顔を見た。

『残りの四人は』

「わしが死ぬのを、待っとる。…待たせておけばいい。年寄りは、しぶとい」

ベアタが、声を出さずに笑った。

『同じだね』

「何がだ」

『わたしも、三百年、待たせてきた』


ウィラが、ニコの手を引いて、二人の前に立った。

「あたしの父さんは、帝国で売られて、共和国で買われて、この畑で寝てた」

ウィラの声は、震えていなかった。

「二人とも、それ、覚えてて」

議長は、ウィラを見た。ベアタも、見た。

どちらも、目をそらさなかった。

ウィラは、それだけ言って、ニコの手を引いて、下がった。

ニコが、振り返って、小さく言った。

『姉ちゃん、かっこいい』

「知ってる」

ウィラは、前を向いたまま、言った。耳が、赤かった。


夕方、マーロウとミラベルは、一の墓の横の草の上に、寝ころんでいた。

畑の光が、少しずつ、明るく見えはじめていた。

『今日、いっぱい、いいことあったね』

「そうだな」

『オスカが、椀、持った。ニコが来た。皇帝と、議長が、仲直りした』

「仲直りかどうかは、知らん」

『じゃあ、仲直りの、手前』

ミラベルは、マーロウの胸に、耳をつけた。

『一さんの前で、坊やの心臓、聞くの、好き』

「なんでだ」

『一さん、坊やと同じ顔でしょ。…なんか、一さんのぶんも、聞いてる気がするの』

マーロウは、ミラベルの灰色の髪を、指で梳いた。

「…兄貴は、うるさいって言うぞ」

『言わないよ。一さん、あたしのこと、好きだったもん』

「どこから来るんだ、その自信」

『来るなって、言いながら、ずっと、見てたもん』

マーロウは、笑った。

ミラベルが、マーロウの胸の上で、指を一本立てた。

『ね。…ちゅう、は? 朝の、お礼の』

マーロウは、ミラベルの顔を、両手で挟んで、口をつけた。一の墓の前で。


夜が、深くなったころだった。

畑の番をしていた双子が、同時に、顔を上げた。

ヨルンとユラン。この畑を、一年、番してきた二人だった。

「…あの音」

水の中で、鐘を鳴らしたような音。

一つではなかった。

『鐘鳴きだ』

二人が、同時に言った。

二年のうちの、百十四日目の夜だった。

第十七章 了