第十二章
同じ顔

女は、箱の縁をまたいで、地面に降りた。
裸足だった。光る草の上で、足の指を、珍しそうに動かした。それから、マーロウのほうへ、両腕を広げて歩いてきた。
『坊や。行こ』
ミラベルの声だった。少し眠たげな、朝の声。
『あっちで、毎朝、一滴、ちょうだい。あたし、それで、動くの』
「行かない」
『行くの。そう、決まってるの』
ミラベルが、二人のあいだに立った。
「坊やに、触らないで」
女は、首をかしげた。そして、同じ言葉を、同じ調子で返した。
『坊やに、触らないで』
先に動いたのは、女のほうだった。
金属の右手が、ミラベルの胸を突いた。ミラベルは、金属の左手で受けた。錆びない金属同士がぶつかって、甲高い音が、畑の上を走った。
二人の動きは、そっくりだった。右へ流して、左で返す。低く沈んで、跳ぶ。ミラベルが二百十一年かけて覚えた動きを、女は、目覚めて一刻もたたずに、全部なぞっていた。
違うのは、腕だった。女の腕は、両方とも金属だった。
ミラベルが右の肉の腕で受けた一撃が、重かった。ミラベルの体が、横へ飛んだ。小屋の壁を突き破って、中の藁に埋もれた。
『一番の唇、さっき、乾きかけてた』
女が、言った。
『朝の一滴が、もう、あんまり残ってない』
女は、マーロウを、両腕で、そっと抱き上げた。赤ん坊を抱くように。どこも締めつけていなかった。痛くも、苦しくもなかった。
そして、東へ走り出した。
畑が、後ろへ流れていった。
光る草の列が、線になった。風の音しか、聞こえなかった。
マーロウは、女の腕の中から、後ろを見た。
小屋の屋根が、一つ、弾け飛んだ。藁を振り散らして、ミラベルが跳び出してきた。
追ってくる。
速さは、同じだった。いや、少しずつ、近づいてくる。女は、マーロウを抱いているぶん、重いのだった。
三十歩。二十歩。十歩。
ミラベルが、女の横に並んだ。唇が、乾きかけていた。
マーロウは、女の腕のあいだから、左の手のひらを突き出した。まだ、血が止まっていなかった。
ミラベルが、走りながら、その手のひらに、唇をつけた。
二滴目だった。
ミラベルの金属の目が、白く光った。
次の瞬間、マーロウは、ミラベルの腕の中にいた。女の腕から、どうやって抜かれたのか、分からなかった。
女が、百メートル向こうの草の上を、転がっていった。
ミラベルは、マーロウを草の上に降ろした。
『ここにいて』
女が、起き上がって、走ってきた。
ミラベルは、正面から受けた。女の両手首を、両手でつかんだ。そのまま、地面に押し倒した。膝で、女の胸を押さえた。
女は、動けなくなった。二滴目のミラベルは、女より、ずっと強かった。
ミラベルは、右の拳を、振り上げた。
そして、そこで、止まった。
女が、ミラベルを見上げていた。
自分の顔だった。自分の、茶色い右目と、金属の左目だった。
「…やだ」
ミラベルの拳が、震えた。
「この顔、斬れない。…殴れない」
女は、押さえつけられたまま、静かに言った。
『放して。坊やを、連れていくのが、あたしの指示』
「連れていかせない」
『連れていけないと、あたし、三日で止まる。坊やの血がないと』
ミラベルの肩が、びくりと揺れた。
それは、ミラベルが、二百十一年、一人で抱えてきたことだった。粒が切れたら止まる。腹を空かせたまま、次の粒を探して走る。
後ろから、足音が近づいてきた。ドラグ。ロズリン。その後ろを、ネルが、工具の袋を抱えて走っていた。空から、ラーナが降りてきた。背中に、ミラを乗せて。
「ネル!」
ミラベルが、女を押さえたまま、叫んだ。
「早く! …あたし、あんまり、もたない!」
女が、ミラベルの肩ごしに、マーロウを見た。
そして、ミラベルの声で、小さく言った。
『…坊や。たすけて』
二年のうちの、百十一日目だった。
第十二章 了