海壁

第二章

暗い帝都

挿絵:暗い帝都

朝、ミラベルは、船室の寝台の上で、マーロウの顔を覗きこんでいた。

『ミラベル・グリム・ケインです』

「知ってる」

『帝都でも、毎朝、名乗るからね』

マーロウは、鉤で左の人差し指を突いた。赤い一滴を、ミラベルの唇に落とした。

ミラベルは、それを舐めて、目を細めた。

『好き。今日も、好き』

「朝から言うな」

『朝だから言うの。一日の、一番最初に』

マーロウは、ミラベルの額を、指で押し返した。

「…おれもだ」

ミラベルは、寝台の上で、一回転がった。天井が低くて、二回目は頭をぶつけた。


甲板の隅で、ロズリンが帳面を広げていた。

帝国暦三四九年、夏。帝国の船の上で、灯り呑み。粒、十二。一〇六番の手のひら、一度。

ゆうべの十二粒は、小さな革の袋に入れて、帳面と一緒に抱えていた。

ロズリンの横に、ドラグが座っていた。座って、何もしていなかった。

二枚前の頁に、発った朝のことが書いてあった。

帝国暦三四九年、夏。海壁の街を発つ。帝国の船、一隻。行く者、一〇六番、一番、ミラ、ウィラ、隊長、書記。壁は、グロム・ハルヴァー。その横に、グレゴール・ヴァーン。

その下に、一行。

隊長、発つ前に、グレゴールさんの肩を、一度叩く。

「書くな、そんなもん」

ドラグが、横から覗いて言った。

『書きました』

「あいつは、立つと言うた。立つやつだ。…それだけのことだ」

『それだけのことを、書くのが、私の仕事です』

ドラグは、何か言いかけて、やめた。それから、ロズリンの肩の上の、ずれた外套の襟を、太い指で直した。

ロズリンは、それも書こうとして、筆を止めた。

耳が、赤かった。


昼過ぎ、セラフィナが、船室の机に、紙を一枚広げた。

帝都の図だった。低い丘を、四角い城壁がぐるりと囲んでいる。丘のてっぺんに宮殿。宮殿の真ん中に、塔が一本。

『灯り呑みが来るようになって、ふた月。呑まれた灯りは、一万を超えました。灯りの下で包まれて、息が詰まって亡くなった者が、四十七人』

表情は、動かなかった。声だけが、少し硬かった。

『日が昇ると、あれは、東へ帰ります。乾くのを嫌うのです。ですから、昼は、何も起きません。夜だけです』

「本部には、訊いたのか」

『陛下が、お訊きになりました』

セラフィナは、答えを、そのまま読み上げるように言った。

『獣は、作りません。東の土地が、乾いているからです。…止める理由は、私の計算には、ありません』

ヴァルターが、腕を組んだまま、口を開いた。

『東の谷で、ハーグレイヴの娘が、管を閉じた。…陛下は、それをお聞きになって、しばらく、黙っておられた』

マーロウは、図の上の、宮殿の塔を見ていた。

本部が連れていきたがった者が、東の水を奪う管を閉じた。本部は、灯りを呑まれて死ぬ者を、数に入れていない。

皇帝は、その二つを、並べて見たのだろう。マーロウには、そう思えた。

ロズリンが、図の端を指さした。宮殿の北に、細長い建物が描いてあった。

「これは、何ですか」

『ロウの家の、書庫です』

セラフィナは、少しだけ、ロズリンのほうを向いた。

『ほどきの古い本も、そこにございます。…ご覧になりますか』

ロズリンの眼鏡の奥で、目が、丸くなった。

「…はい。ぜひ」

ドラグが、小さく鼻を鳴らした。笑ったのだった。


船室の隅で、エステルが、灯りを抱えて、ウィラの袖を引いていた。

『ウィラ。帝都でも、歌って』

「へたくそなのに?」

『へたくそなのが、いいの』

ウィラは、困った顔をして、それから笑った。

「…いいよ。暗くなったら、呼んで」

セラフィナが、机から、その二人を見ていた。何も言わなかった。


海壁の街を発って四日目の夕方、帝都が見えた。

乾いた平野の真ん中の、低い丘が、まるごと街になっていた。四角い城壁の中に、石の家が、丘のてっぺんまで積み上がっている。てっぺんに、宮殿。宮殿の真ん中に、細く高い塔。

海壁の街の、何十倍もの大きさだった。

日が沈むと、灯りが点いた。何万という窓に、いっせいに。

そして、消えはじめた。

外側の区から、順に。城壁のそばの窓が消え、次の通りが消え、その次が消えて、暗さが、丘を這い上がっていった。

やがて、帝都は、真っ暗になった。

一つだけ、残った。

宮殿の塔の、いちばん高い窓に、灯りが一つ。

「…消してないのが、ある」

『陛下の窓だ』

ヴァルターが、言った。

『灯りが一つもなければ、あれは、家の窓を探しに来る。子どもの寝床の、小さな灯りまでな。…だから、陛下は、一つだけ、点けておかれる。自分の窓に』

ミラベルが、マーロウの袖をつかんだ。

東の空で、星が、消えていた。

一つずつではなかった。帯のように。空の端から端まで、太い帯になって、星が消えていく。

帯は、まっすぐ、宮殿の塔へ向かっていた。

二年のうちの、百二日目だった。

第二章 了