海壁

第十六章

同じ指

挿絵:同じ指

朝、マーロウは、鉤で左の人差し指を突いた。

赤い一滴を、ミラベルの唇に落とした。

それから、右の手を上げた。鉤の先を、右の人差し指に当てた。

『待って』

ミラベルが、その手首をつかんだ。

『同じ指で、いい』

「右からやるって、決めたろ」

『決めた。でも、坊やが毎朝二本切ったら、それで、一日の二本、おしまいでしょ』

ミラベルは、マーロウの左の人差し指を見た。まだ、赤い玉が、ふくらんでいた。

『そのあと、何かあったら、坊や、切れない。…そっちのほうが、やだ』

「いいのか」

『よくない』

ミラベルは、口をとがらせた。それから、少し笑った。

『よくないけど、坊やの手のほうが、大事。左も右も、坊やの指だもん』

マーロウは、鉤を下ろした。

「…ありがとな」

『お礼は、あと。ちゅうで』


ミラベルは、マーロウの左手を持って、小屋へ運んだ。

オスカは、藁の上に座っていた。開いたままの指を、膝に置いて。

ミラベルが、マーロウの指先を、オスカの唇の上に傾けた。二つ目の一滴が、落ちた。

オスカの金属の目が、明るくなった。

オスカは、ミラベルを見上げて、言った。

『…おはよう、ミラベル』

ミラベルが、固まった。

「…それ」

声が、かすれた。

「爺さんが、毎朝、言ってたやつ。十年、毎朝」

オスカは、首をかしげた。

『本部の記録に、あった。一番の、最後の頁』

ミラベルは、しばらく、何も言えなかった。

それから、オスカの前に、ぺたんと座った。

「…おはよう、オスカ」


昼前、ミラが、木の椀に水を入れて、オスカの前に置いた。

オスカは、開いたままの指で、椀をつかもうとした。指が閉じない。椀が傾いて、水がこぼれた。

二度。三度。

ミラが、自分の木の両手を、椀の両側から、ぺたりと当ててみせた。

『つかめなくても、はさめる』

オスカは、開いた両手のひらで、椀を左右から挟んだ。そっと持ち上げた。水が、揺れた。こぼれなかった。

「…持てた」

オスカの口の端が、少しだけ、上がった。ミラベルの笑い方とは、少し違った。

ミラベルが、戸口で、それを見ていた。

ネルが、その横で、腕を組んでいた。

『留めは、子どもの最初の一年に入れるやつだって、言ったろ』

「うん」

『最初の一年で、みんな、はさむのを覚えるんだよ』


昼過ぎ、南の空に、船が見えた。

帝国の灰色の船ではなかった。共和国の、提督の船だった。

船の腹から光の柱が落ちて、最初に降りてきたのは、小さな影だった。

『姉ちゃん!』

ニコだった。

柱から転がり出て、光る草の上を、まっすぐ走ってきた。ウィラが、それを受けとめた。二人とも、草の上に転がった。

「ニコ! 筒、ちゃんと飲んでる?」

『飲んでる! トンが、姉ちゃんが近くにいるって、言ったの!』

ウィラは、笑いながら、ニコの頭をぐしゃぐしゃにした。マーロウのやり方で。


二本目の柱を、提督ヴァレリア・コルトが降りてきた。短い赤い髪。銀の鎧。左目のまわりに、グリフォンの羽根の模様。

その後ろに、もう一人いた。

杖をついた、背の曲がった老人だった。白い髭が胸まであって、杖を握る手が、小さく震えていた。

提督が、マーロウの前で、足を止めた。

『畑の見張りが、翼の兵で報せてきた。帝国の皇帝が、畑に来たと』

提督は、顎で、後ろの老人を示した。

『議長が、自分で行くと言って、聞かなかった』

議長、エドガー・マルムは、杖をついて、一の墓の前まで歩いた。

そこに、小さなゴブリンが立っていた。灰色の服。曲がった腰。大きな耳。

二人の老人は、しばらく、黙って見合っていた。

「…ゴブリン、か。聞いておらん」

議長が、細い声で言った。

ベアタは、黄色い目で、議長を見上げた。

『三百年、あんたらの国に、人を売ってきた国の、いちばん上だよ』

議長の手の震えが、一瞬、止まった。

「…わしは、その人を、二十年、買ってきた議会の、いちばん上だ」

二年のうちの、百十四日目だった。

第十六章 了