第九章
泣くやつがいるように

「行っちゃう」
ウィラは、階段に、エステルと並んで座り直した。
「畑に、十二の家の人たちがいるの。父さんが、横にいないと。…あたしも、横にいたい」
エステルは、灯りを抱えたまま、うつむいた。
『帰ってくる?』
「帰ってくる。海壁の街に帰る前に、ここに寄る」
『ほんと?』
「ほんと」
エステルは、しばらく黙っていた。それから、顔を上げた。
『じゃあ、そのあいだに、一回だけ、灯りなしで寝る。ひとりで』
ウィラの目が、丸くなった。
『できたら、ウィラに、言う。…できなくても、言う』
ウィラは、エステルの頭を撫でた。マーロウが、自分にするやり方で。
「どっちでも、いいよ。言いに来てくれたら」
次の朝、宮殿の中庭に、帝国の船が一隻、待っていた。
乗るのは、マーロウ、ミラベル、ミラ、ウィラ、ドラグ、ロズリン。それに、ベアタとヴァルター。
ロズリンの腕には、書庫から借りた本が三冊あった。セラフィナが、書庫の番として、貸すと決めたのだった。
セラフィナは、包帯の手で、エステルの手を引いて、船の前に立っていた。
「陛下」
『ベアタだよ。きのうからね』
皇帝は、そう言って、ウィラのほうを顎で示した。
『この子が、呼ぶから』
セラフィナは、ほんの少しだけ、口の端を上げた。マーロウには、そう見えた。
「…ベアタさま。帝都を、お預かりします」
エステルが、船に乗りこむウィラに、手を振った。灯りを抱えていないほうの手で。
ウィラも、手を振り返した。船の腹が閉じるまで、ずっと。
帝国の船で、畑までは、南へ六日だった。
その夜、ベアタは、甲板の手すりの前に、小さな椅子を出させて座っていた。ミラベルが、その横の手すりに腰かけていた。
ベアタの黄色い目が、ミラベルの腰の剣を見ていた。
『一番目の刃が作られた年に、本部から、帝都に報せが来たよ。刃を一本、作ります、とね』
「帝国暦、百三十八年」
ミラベルが、言った。
「あたしの、作られた年」
『その年の春に、一人の男が、帝都へ来た。本部に召される前に、その剣を見に』
ミラベルが、手すりの上で、動かなくなった。
『片方の目が悪い、手の大きな男だったよ。剣を長いこと見て、指で叩いて、言った。この剣で止められる刃を作る。止められないものは、作らない、と』
「…名前」
ミラベルの声が、かすれた。
『オスカー・グリム、と名乗った』
マーロウは、少し離れて、それを聞いていた。
『もう一つ、言っていたよ。作ったら、名前をつける、と』
ベアタは、ミラベルを見上げた。
『名前のないものは、止めるときに、誰も泣かない。だから、つける。…止めるときに、泣くやつがいるように、ってね』
ミラベルは、何も言わなかった。
右の茶色い目から、ひとつぶ、落ちた。それから、もうひとつぶ。
「…爺さん」
ミラベルは、手すりから降りて、ベアタの前に、しゃがみこんだ。
「あたし、止まってないよ。…泣くやつ、いっぱい、できた」
『そうかい』
ベアタは、指の多い手で、ミラベルの頬を、ぽんぽんと二度叩いた。
『あの男に、見せてやりたかったね』
ミラベルは、マーロウのところへ戻ってきて、黙って、その胸に額を押しつけた。
マーロウは、その背中に、腕を回した。
「泣くやつ、の中に、おれも入ってるか」
『…いちばん、前』
「なら、いい」
しばらくして、ミラベルが、顔を上げた。まだ、目が赤かった。
『坊や。三番目の子、名前、ないんだよね』
「…たぶんな」
『ないんだよね』
ミラベルは、もう一度、同じことを言った。それから、南の暗い空を見た。
船は、夜のあいだも、南へ進んでいた。
次の朝、船室の戸口の前を、ベアタが通りかかった。
中で、ミラベルが、寝台の上から、マーロウの顔を覗きこんでいた。
『ミラベル・グリム・ケインです』
「知ってる」
『忘れないように』
マーロウが、指先の一滴を、ミラベルの唇に落とした。
ベアタは、戸口で、足を止めていた。
ミラベルが、気づいて、振り向いた。
「あ。…見てた?」
『毎朝、名乗るのかい』
「毎朝。坊やが、覚えてても。名前は、言うと、減らないの。増えるの」
ベアタは、しばらく、黙っていた。
それから、誰もいない廊下のほうを向いて、小さく言った。
『…ベアタ』
誰に聞かせるでもなく、自分の名前を。
『増えたかね』
「増えた!」
ミラベルが、寝台の上で、両手を上げた。
二年のうちの、百七日目だった。
第九章 了