第五章
ロウの書庫

朝、帝都の屋根が、白くなっていた。
ゆうべ塔で崩れた灯り呑みのかけらが、風に乗って、丘の下まで散っていた。薄い塩の粉だった。その中に、ところどころ、粒が光っていた。
通りで、子どもたちが、粒を拾っていた。拾っては、大人のところへ持っていき、叱られるのではないかという顔で差し出した。
宮殿から、触れ役が出てきて、大声で読んだ。
『陛下の言葉である。ゆうべ降った粒は、拾った者のものとする』
子どもたちが、歓声を上げた。
続けて、もう一枚。
『帝国の施療所、三十八。本日をもって、すべて止める。瓶は日向に出し、変えた者の名前を、残らず書き出すこと』
通りが、しんとした。それから、ざわめきが、波のように広がっていった。
ロズリンが、宮殿の石段で、帳面に書いた。
帝国暦三四九年、夏。帝都。残りの施療所、三十八に、止めよと触れが出る。早馬で、十日で、全部に届く。
ウィラが、その一行を、長いこと見ていた。何も言わなかった。
昼、ロウの家の書庫の扉が、開いた。
細長い石の建物だった。中は薄暗く、天井まで届く棚に、古い本と紙の束が、ぎっしり詰まっていた。乾いた紙の匂いがした。
ロズリンが、入口で、立ち止まった。
「…これを、全部、読んだ人がいるのですか」
『ロウの家の者が、三百年かけて』
セラフィナが、灯りを一つ点けながら言った。昼なので、灯り呑みは来ない。
『まだ、半分も、読めておりません』
ロズリンは、棚の前で、深く息を吸った。ドラグが、その後ろで、壁にもたれた。
「好きなだけ見てこい。おれは、ここに立っとる」
『…はい』
エステルが、奥の低い棚へ、迷わず走っていった。
「おかあさま、昔の布の本、これ。絵のあるやつ」
エステルは、小さい本ではなく、自分の胸ほどもある、革の剥げた本を引きずってきた。セラフィナが、それを机に置いた。
『この子は、絵のある本の場所だけは、全部、覚えております』
ページをめくると、墨の絵があった。
空に広がる、大きな布。その下に、灯りの消えた街。布の真ん中に、黒く塗った丸い塊。
ロズリンが、字を指でたどって、読み上げた。
「呑み布。敵の街の灯りを呑むために、放つ。呑んだ光で、子を産む。親は、いちばん明るい街の上で、子を産む」
ページを、めくった。
「親の芯は、濡れた塊である。昔の粒を、腹いっぱいに抱えている。芯が乾けば、親は崩れ、子もすべて崩れる」
ロズリンの指が、止まった。
「…乾かせる者は、いなかった。ゆえに、灯りをすべて消し、呑むものをなくして、親が飢えて眠るまで、待った」
書庫が、静かになった。
「鳴き霧と、同じだ」
マーロウが言った。
「真ん中の塊を乾かせば、群れが、ほどける」
『乾かせる者が、今は、おります』
セラフィナが、マーロウを見た。
ロズリンは、帳面に、絵の形を写しはじめた。筆が速かった。ドラグは、壁にもたれたまま、その横顔を見ていた。
帰り道、ミラベルが、マーロウの袖を引っぱった。
『坊や。昼は、あれ、来ないんでしょ』
「来ないらしいな」
『じゃあ、でーと』
帝都の市場は、海壁の街の市場の十倍はあった。ミラベルは、屋台を一つずつ覗いて、干した果物を一袋、買った。杏ではなかった。赤くて、酸っぱかった。
『ニムの杏のほうが、おいしい』
「言ってやれ。喜ぶ」
『言う。…坊や、好き』
「市場の真ん中で言うな」
『市場の真ん中だから、言うの。みんなに、聞こえるように』
屋台の親父が、笑っていた。
マーロウは、ミラベルの手から、酸っぱい実を一つ取って、口に入れた。顔をしかめた。
「…おれもだ。酸っぱいけどな」
ミラベルは、実の袋を抱えて、その場で一回、くるりと回った。
宮殿の中庭では、ウィラが、エステルに、字を教えていた。石畳に、炭で。
『ウィラ。…ウィラ・ドーセット・ケイン。長い』
「長いのは、父さんが二人いるから」
エステルは、灯りを膝に置いて、自分の名前の横に、炭で、小さく書き足した。
『エステル・ロウ。…ウィラのとなり』
ウィラは、笑って、エステルの頭を撫でた。マーロウが、ウィラにするやり方だった。
日が傾くころ、塔の露台で、東の見張りが、声を上げた。
東の地平線が、黒くなっていた。
星が消えたのではなかった。まだ、夕焼けの残る空だった。その空の、端から端までが、平たい黒い帯で、塗りつぶされていた。
ヴァルターが、遠眼鏡を下ろした。
『…親だ』
皇帝が、露台の手すりに、小さな両手をかけた。
『今夜、来るね』
二年のうちの、百三日目だった。
第五章 了