第八章
ベアタ

朝、ロウの家の書庫の扉の前に、ドラグが座っていた。
一晩じゅう、そこにいたらしかった。扉にもたれて、腕を組んで、目を開けていた。
『書くやつが、中で読んどる。…動くわけにいかん』
マーロウは、何も言わずに、その横を通った。
中では、ロズリンが、机に本を積み上げていた。眼鏡がずれて、頬に墨がついていた。
『一晩で、四十一冊です』
「寝てないのか」
『寝るのが、もったいなかったのです』
ロズリンは、積んだ本の背を、指でなでた。
『帝国ができる前の、人の数の帳面。水の値の帳面。昔の戦の本。…ほどきの本は、まだ、三冊目の途中です』
それから、扉のほうを見て、少しだけ声を小さくした。
『隊長が、一晩、扉の前にいたのは、知っています。…書いておきました』
昼前、ウィラが、茶を二つ持って、塔の部屋に上がった。
皇帝は、椅子の上で、膝に毛布をかけていた。ウィラが一つを差し出すと、六本の指で受け取った。
「訊いていい?」
『何をだい』
「名前」
皇帝の黄色い目が、少しだけ、丸くなった。
『…三百年、誰も、訊かなかったね』
「陛下は、名前じゃないでしょ」
皇帝は、茶の湯気を、長いこと見ていた。
『ベアタ』
小さな声だった。
『人間だったころの名前さ。皇帝になってから、誰も呼ばない。わたしも、忘れかけていた』
「ベアタさん」
皇帝の大きな耳が、ぴくりと動いた。
「名前は、呼ばれるためにあるんだって。ミラベルが言ってた」
ベアタは、茶を一口すすった。
『…しょっぱいね、この茶』
「塩の雪、入ったかも」
ベアタは、声を出さずに笑った。三百年ぶりに呼ばれた名前が、狭い部屋の中に、まだ残っているようだった。
昼、塔の部屋に、みんなが集まった。
「畑へ行く」
マーロウが、言った。
「十二の家の者が、まだ八つ、戻ってない。三番目の刃は、おれがどこにいても来る。なら、十二の家の者の横にいたほうがいい」
『わたしも、行くよ』
ベアタが、言った。
ヴァルターが、一歩、前に出た。
「陛下。帝都は」
『名代がいる』
ベアタは、セラフィナを見た。
『名代じゃなくて、代わりをやりな。わたしが帰るまで、帝都は、あんたのものだ』
セラフィナの目が、見開かれた。表情のない顔に、驚きが、はっきり出た。マーロウが見たのは、初めてだった。
「…なぜ、陛下が、畑へ」
ヴァルターが、食い下がった。
『畑には、わたしが売った者たちがいる。三百九十一の、噛む兵もね。あれは、わたしの命で噛まされた。…顔を見ないで、終わりにはできないよ』
「危のうございます」
『近衛は、命に従う。命の読み方は、近衛が決める。…そうだったね』
ヴァルターは、口を閉じた。自分の言葉だった。
「…お供します」
『最初から、そう言いな』
夜、宮殿の屋根の上に、マーロウとミラベルは並んで座っていた。
帝都じゅうの窓に、灯りが点いていた。丘のふもとから、てっぺんまで。海壁の街の灯りを、何十も重ねたようだった。
『きれい』
「ああ」
『坊や』
「なんだ」
『あたしの妹が、坊やの血を、欲しがってる』
ミラベルは、膝を抱えた。
『…やだ。すごく、やだ。会ったこともないのに』
「おれの血は、朝の一滴で、おまえのだ。それは変わらない」
『毎朝?』
「毎朝」
ミラベルは、マーロウの肩に、頭をのせた。
『愛してる』
「…知ってる」
『知ってる、じゃなくて』
マーロウは、ミラベルの灰色の髪に、顔をうずめた。
「…おれも、愛してる。帝都の灯りを全部足したより、な」
ミラベルは、屋根の上で転がりかけて、マーロウに腕をつかまれた。
『落ちるとこだった!』
「落ちたら、拾いに行く」
屋根から下りると、階段の途中に、エステルが座っていた。灯りを抱えて。
その横に、ウィラがいた。
エステルは、ウィラの袖を、両手でつかんでいた。
『ウィラ、行っちゃうの?』
二年のうちの、百五日目だった。
第八章 了