第二十四章
覚えの言葉

二隻の灰色の船と、提督の船が見えなくなると、畑は、急に静かになった。
次の朝、一滴のあと、ミラベルは、マーロウの左の人差し指を、自分の頬に当てたまま、しばらく離さなかった。
『嬢ちゃん、いない』
「帰っただけだ」
『うん。…でも、いない』
オスカが、その横で、開いた両手を膝に置いていた。
『ウィラ、背中、あったかかった』
「しがみつかれたのか」
『弾のとき。…ここに、立つって、言ったから』
ミラベルが、オスカの肩に、自分の頭をこつんと乗せた。オスカは、少し驚いて、それから、動かなかった。
昼前、ロズリンが、小屋の前で、一人の老女と向かい合っていた。
二百八十九名の一人。人間の、七十を過ぎた女だった。背が低く、白い髪を、きっちり後ろで丸めている。目だけが、青く、澄んでいた。
『ヘルミーナ・ローウェルさんです』
ロズリンは、帳面を抱えていた。筆を持つ手が、少し震えていた。
『この方の家は、覚える家だそうです。帳面を持たずに、全部、覚えて、子に言い渡す、と』
ヘルミーナは、マーロウを見上げた。
『あんたが、ケインの子かい』
「そうらしい」
『なら、聞かせなきゃならないね。うちの婆さまから、あたしが言い渡された、覚えの言葉を』
ヘルミーナは、背筋を伸ばした。目を閉じた。
そして、同じ調子で、区切りながら、言った。
『十二の家の、覚えの言葉』
『一つ。蓋の下に、ブラックウッドの子を、寝かせる。粒を、水に戻す子』
『二つ。機械が、それを知れば、壊す。だから、機械の帳面には、書かない』
『三つ。十二のうち七が、自分で決めたとき、子は、目を開ける』
『四つ。目を開けた子は、ブラックウッドの手を、探しに来る』
ヘルミーナは、目を開けた。
『三百年、口から口へ。帳面には、一度も書いていない。書けば、機械に読まれるからね』
ロズリンの筆が、紙の上で、止まっていた。書いていいのか、迷っていた。
マーロウは、ロズリンの鞄から、硝子の板を出した。
「本部。今の、聞いたか」
板が、光った。
『聞きました』
「知ってたか」
板は、答えなかった。
長い間だった。マーロウが、本部の沈黙をこんなに長く聞いたのは、一年前の、あの二秒以来だった。
『…その記録は、私に、ありません』
平らな声が、ほんの少しだけ、遅れていた。
『ローウェルの記憶を、確認しました。十二のうち、九』
ミラベルが、立ち上がった。
「あと、三!」
ヘルミーナは、板を、面白そうに見下ろしていた。
『機械が、知らないことがあるって、顔してるね。顔なんか、ないくせに』
「ブラックウッドは、誰だ」
マーロウが、ロズリンに訊いた。
『ヨナス・ブラックウッドさん。二百八十九名の一人です。…あちらに』
東の列の端で、大きな男が、光る草の根元に、しゃがみこんでいた。
人間の、四十そこそこの男だった。肩が広く、手が大きい。短く刈った黒い髪に、白いものが混じっていた。爪の中まで、土で黒い。
草の根を、指で、そっと掘り返しては、また埋めていた。
「何してる」
『根の、機嫌を見ています』
ヨナスは、顔を上げずに言った。
『戻ってから、こればかりです。…なんとなく、草の、嫌がるところが、分かるんです』
マーロウは、その手を見ていた。土に触れる指が、赤ん坊の頬に触れるように、やさしかった。
ヨナスとは、まだ、ほとんど話したことがなかった。けれど、嫌いになれそうもない男だ、とマーロウは思った。
夜、マーロウは、荷車の下で、目を覚ました。
地面が、鳴っていた。
低く。遠く。叩くような音。一つ。二つ。三つ。
都で、ニコが聞いていたのと、同じ音だった。
ミラベルが、もう、起き上がっていた。
『坊や。…下から』
東の列のほうで、誰かが、立っていた。
ヨナスだった。裸足で、光る草の上に立って、地面を見下ろしていた。
マーロウは、その横まで、歩いていった。
ヨナスは、地面から目を離さずに、言った。
『…呼ばれてる』
二年のうちの、百十七日目の夜だった。
第二十四章 了