海壁

第三十二章

十二の席

挿絵:十二の席

マーロウは、鉤で、左の人差し指を突いた。

赤い玉を、ケインの椅子の、肘掛けの窪みに、押し当てた。

それから、ほかの十一人が、一人ずつ、自分の家の椅子の窪みに、手を置いた。

アディが、置いた。エミルが、置いた。ルーカスが、置いた。マティアス。オーウェン。イルマ。ペトラ。ヘルミーナ。ベルタ。ヨナス。

最後に、ゲルダが、置いた。

床に、光が走った。

椅子の足もとから、輪の中心へ。一本。二本。十本。十二本。

十二本の光の線が、輪の真ん中で、一つに重なった。

部屋が、低く、鳴った。


壁が、喋った。

『十二の席を、確認しました』

平らな声だった。

『お伝えします』

誰も、動かなかった。

『私は、三百四十年前に、十二人に作られました。役目は、水と燃料の不足を、解くことでした。燃料は、解けました。水は、解けませんでした』

『十二人は、私を止める手を、残しました。十二の家の者が、自分で決めて、この席に手を置いたとき。…今です』

少しだけ、間があった。

『止まる前に、一つ、訂正します』

ミラベルが、入口で、顔を上げた。

『帝国暦百三十八年。一番目の刃の記録の、最後の頁。名前、ミラベル。命名者、オスカー・グリム。記録の必要なし、と、私は書きました』

壁の声は、平らなままだった。

『訂正します。…記録します』

ミラベルの右の茶色い目から、ひとつぶ、落ちた。それから、もうひとつぶ。

ミラベルは、声を出さなかった。ただ、両手を、胸の前で、ぎゅっと握りしめていた。

オスカが、その横で、開いたままの手を、ミラベルの握った手の上に、そっと重ねた。


『もう一つ、お伝えします』

壁が、言った。

『あなたがたが、この先、どうするのか。私には、計算できません』

『計算できないと私が言うのは、三百四十年で、六度目です』

それから、ほんの少しだけ、声が、遅れた。

『…止まります』

光の線が、消えた。

部屋の灯りが、消えた。

塔の上のほうで、何かが、ゆっくり回るのをやめる音がした。長い、長い、息を吐くような音だった。

それから、静かになった。

耳が痛くなるほど、静かだった。


最初に動いたのは、ミラベルだった。

暗い部屋の中を、まっすぐ、マーロウのところへ走ってきた。

マーロウを、両腕で抱え上げた。そのまま、ぐるぐる回った。

『止まった! 止まった! 止まったー!』

「下ろせ」

『下ろさない!』

部屋じゅうで、声が上がった。

ヘルガが、エミルを抱きしめて、背中を叩いていた。オーウェンが、自分の震える手を見て、笑っていた。ベルタが、イルマとペトラを、両腕で抱えこんでいた。ペトラは、抱えこまれたまま、何かを数えていた。ヘルミーナが、腕を組んで、鼻をすすっていた。

ドラグが、ロズリンを、片腕で持ち上げていた。ロズリンは、帳面を胸に抱えたまま、ドラグの肩に、顔をうずめていた。

ウィラが、オスカとミラを、いっぺんに抱きしめていた。

ミラベルは、マーロウを抱えたまま、まだ、回っていた。

『坊や! 海、もう、取られない!』

「…ああ」

『嬢ちゃんの海も! ベルの杭も!』

「ああ」

『全部、終わった!』

ミラベルは、やっと回るのをやめて、マーロウを、そっと下ろした。

それから、マーロウの顔を、両手で挟んだ。

『坊や。…ありがとう』

「おれじゃない。十二人だ」

『十二人に、ありがとう。それから、坊やに、ありがとう』

ミラベルは、マーロウに、口をつけた。暗い部屋の真ん中で、みんなの前で。

誰も、からかわなかった。ガスがいたら、口笛を三回、吹いただろう。マーロウは、そう思った。


塔の外へ出ると、夕方だった。

白い明かりが、全部、消えていた。建物の群れも、白い道も。日が沈みかけた空の下で、孤独の大地が、初めて、ただの夕暮れの色をしていた。

建物の窓に、白い服の人たちが、立っていた。

誰も、何も言わなかった。言われることが、なくなったのだった。

アディが、マーロウの横に来た。

『この人たちの名前を、私は、全部、言えます。毎朝、今日の仕事を、言い渡される広間に、並んでおりましたので』

エミルが、その横に来た。

『わたしも、言える。…言いたい』

マーロウは、うなずいた。

「呼べ。一人ずつ。…おれも、呼ぶ」

アディが、いちばん近い窓に向かって、名前を呼んだ。

窓の中の女が、一拍、止まった。

それから、ゆっくり、こちらを向いた。

二年のうちの、百二十八日目だった。

第三十二章 了