第十四章
あたし、だれ

ミラベルが、小屋の戸口に、飛びこんできた。
「それは、あたしの名前!」
女は、座ったまま、ミラベルを見上げた。開いたままの指を、膝に置いて。
『ミラベル・グリム・ケインです。毎朝、名乗るの。坊やが、覚えてても』
「あたしの! あたしが、もらったの!」
ミラベルの声が、ひっくり返った。
「ミラベルは、爺さんがくれた。グリムは、爺さんの名字。ネルの家と、同じ名字。ケインは、坊やが、壁の上で、一字ずつ書いてくれた。…あんたのじゃない!」
女は、首をかしげた。
『じゃあ、あたしの名前は?』
ミラベルは、答えられなかった。
小屋の外で、ロズリンが、硝子の板を抱えて、うつむいていた。
『本部は、壁と、この板で、ずっと聞いていました』
マーロウに、そう言った。
『海壁の街で、ミラベルさんが壁の上で名乗った朝も。畑の婚礼の夜も。この板は、いつも、私の鞄の中にありました』
「おまえのせいじゃない」
『あの子は、聞かれたことを、全部、写されて生まれてきたのです』
ドラグが、ロズリンの横に来て、立った。
「板が聞いとるなら、聞かせとけ」
ロズリンが、顔を上げた。
「おまえが書くのは、板のためじゃない。…そうだろう」
ロズリンは、少しして、うなずいた。ドラグの外套の袖を、指先で、つまんだ。
昼、畑の真ん中の、一の墓の前に、ベアタが立っていた。
その前に、灰色の服の男たちが、何百人も集まっていた。噛む兵だった、三百九十一人。その横に、柱から縄を解かれたヒューゴが、背筋を伸ばして立っていた。白い服は、もう白くなかった。
男たちが、膝をつこうとした。
『膝をつくな』
ベアタが、言った。
『立ってな。あんたらは、畑の兵だろ』
男たちは、立ったまま、動かなかった。
ベアタは、ヒューゴを見た。
『施療所の医官だね。四百の名前を、覚えていたそうじゃないか』
「覚えていないことに、しておりました。陛下の命でございましたので」
『じゃあ、次の命だ。施療所で変えた者の名前を、あんたの覚えている分だけ、全部、書きな。一人残らずだ』
ヒューゴは、深く頭を下げた。
「承りました。…四百二十一名、ございます」
ティルダが、マリエの手を引いて、ベアタの前に進み出た。
灰色の外套。胸に、羽根の印。髪を、きっちり後ろでまとめている。
『監督官、ティルダ・ノームでございます』
ベアタは、ティルダを見上げた。小さな皇帝は、ティルダの腰までしかなかった。
「港の街の者だね」
『はい。十九年前に、港の街から、運ばれました。娘が、五つの春でございました』
ティルダは、マリエの肩に、手を置いた。
『これが、娘でございます。帝国暦三四八年、夏。港の街の施療所から、運ばれました。わたくしが、札を書きました。自分の娘と知らずに』
ベアタは、何も言わなかった。
『陛下に、何を申し上げるか。指示書には、ございません』
ティルダは、背筋を伸ばしたまま、言った。
『ですから、一つだけ、お願いいたします。娘の名前を、陛下の口で、お呼びください』
ベアタは、マリエを見上げた。
左の目の下の、小さなほくろを、長いこと見ていた。
「…マリエ・ノーム」
マリエが、一拍、止まった。それから、はっきり答えた。
『はい』
ティルダの指が、娘の肩の上で、白くなった。
ベアタは、それ以上、何も言わなかった。謝りもしなかった。ただ、ティルダが娘を連れて下がるまで、黄色い目を、一度もそらさなかった。
夕方、ミラが、小屋の中で、女の横に座っていた。
ミラは、自分の木の腕を、女の前に差し出した。溝を刻んだ指を、一本ずつ、動かしてみせた。
『ミラも、最初、指、なかった。…名前も、なかった』
女は、ミラの木の指を見て、にこりと笑った。
「ミラ、えらい」
ミラは、首を横に振った。
『それ、ミラベルの。ミラベルが、いつも、言うやつ』
ミラは、女の顔を、金属の目で、じっと見た。
『…あなたのは?』
女の笑顔が、止まった。
女は、自分の開いたままの指を、見下ろした。長いこと、見ていた。何も、つかめない指だった。
それから、ミラベルの口ぶりではない、小さな声で、言った。
「…あたし、だれ?」
二年のうちの、百十二日目だった。
第十四章 了