海壁

第十五章

オスカ

挿絵:オスカ

二日目の朝、女は、小屋の藁の上に、横になっていた。

起き上がろうとして、起き上がれなかった。金属の目の光が、ゆうべより、薄かった。

ミラベルは、戸口に立って、それを見ていた。

一滴がないと、一日目は普通で、二日目にだるくなる。三日目に、止まる。ミラベルの体と、同じだった。

「だるい?」

女は、うなずいた。

「今朝は、名乗らないの」

女は、しばらく黙っていた。

『…言わなかった』

小さな声だった。

『ミラベル・グリム・ケインは、あたしのじゃ、ないから』

ミラベルは、戸口の柱を、ぎゅっと握った。


荷車の下で、ミラベルは、マーロウの前に正座していた。

『決めた』

「言え」

『あの子に、名前、あげたい。爺さんが、あたしにしたみたいに』

ミラベルは、膝の上で、両手を握りしめた。

『それで、坊やの血、一滴、あげて。…毎朝』

「いいのか」

『よくない』

ミラベルは、即座に言った。

『すごく、よくない。坊やの血は、あたしのだもん。…でも、あの子が止まったら、あたし、泣く。泣くやつが、いるの。だから、名前をあげて、止めない』

マーロウは、自分の両手を、ミラベルの前に出した。

「左の指は、おまえのだ。今までどおり、毎朝」

それから、右の手を、少し上げた。

「あいつには、右の指からやる。左には、触らせない」

ミラベルは、マーロウの左手を、両手でつかんだ。自分の頬に、押しあてた。

『…それなら、いい』

「二人で、決めたな」

『二人で、決めた』


昼、小屋に、みんなが集まった。

ネルとミラ。ロズリンと、硝子の板。戸口に、ドラグ。少し離れて、ベアタが、ヴァルターの腕につかまって立っていた。ウィラは、ベアタの横にいた。

ミラベルが、女の枕元に、膝をついた。

「あんたの名前、考えた」

女の目が、ゆっくり、ミラベルに向いた。

「オスカ」

ミラベルは、一度、唇を噛んだ。

「あたしに名前をくれた爺さんが、オスカー・グリムっていうの。その名前、半分、もらった。…あたしが、名前をあげる番だから」

女は、動かなかった。

「あんたが止まったら、あたしが泣く。止めるときに、泣くやつがいるように、って。爺さんが、そう言って、名前をつけたんだって」

女の唇が、動いた。

『…オスカ』

「そう。オスカ」

マーロウは、鉤で、右の人差し指を突いた。今日の二本目だった。

ミラベルが、その手首を、両手で持った。

『あたしが、あげる。坊やの手で、あたしが』

ミラベルは、マーロウの右の指を、オスカの唇の上へ運んだ。赤い一滴が、落ちた。

オスカの金属の目に、光が戻った。

オスカは、ゆっくり、体を起こした。開いたままの指を、膝に置いて、ミラベルを見た。

『…オスカ』

もう一度、自分の口で、言った。


ロズリンの抱えた板が、光った。

『三番。一〇六番を、孤独の大地へ、運びなさい』

小屋の中が、静かになった。ドラグが、戸口で、腰を浮かせた。

オスカは、板のほうを、見なかった。

「…三番、じゃない」

それだけ、言った。

「オスカ」

板は、しばらく、何も言わなかった。

それから、平らな声で、言った。

『名前、オスカ。命名者、ミラベル・グリム・ケイン。…記録します』

ミラベルが、目を見開いた。

二百十一年前、本部は、ミラベルの名前に、記録の必要なし、と書いた。ベルが、前に、そう教えてくれた。

「…記録、するんだ」

ミラベルの右の茶色い目から、ひとつぶ、落ちた。

「あたしのときは、記録の必要なし、だったのに」

ベアタが、ウィラの肩に、そっと手を置いた。ウィラは、その手を、振り払わなかった。

二年のうちの、百十三日目だった。

第十五章 了