第七章
約束の終わり

朝、帝都は、白かった。
屋根も、通りも、城壁も、塩の雪をかぶっていた。子どもたちが、それを両手ですくって、投げ合っていた。しょっぱい、と言って笑う声が、丘のあちこちから上がっていた。
宮殿の一室で、ロズリンが、セラフィナの指に包帯を巻いていた。
「書く手でも、包帯は巻けます」
『…お上手です』
セラフィナは、自分の指を見下ろした。右の人差し指の先が、赤く焼けていた。
エステルが、母親の膝に、しがみついていた。
「おかあさま、指、痛い?」
『痛いわ』
セラフィナは、焼けていない左の手で、娘の銀の髪を撫でた。
『でも、ゆうべは、南の子の家の窓から、灯りが、ひとつ点いたの。おかあさまは、それを見たわ』
エステルは、母親の包帯の上に、自分の小さな手を重ねた。
ドラグが、戸口で、腕を組んで見ていた。
「…あの女、表情がないと思っとった」
ロズリンは、包帯を結びながら、小さく答えた。
『ありますよ。隊長と、同じくらいには』
「どういう意味だ」
『書いておきます』
昼前、宮殿の前の広場に、人が集まっていた。塩の雪を踏んで、何千人も。
宮殿の露台に、小さな人影が出てきた。
灰色の服。曲がった腰。大きな耳。
広場が、静かになった。誰も、皇帝の顔を知らなかった。
『陛下が、民の前に顔をお出しになるのは、初めてだ』
ヴァルターが、マーロウの横で、低く言った。
『…三百年で』
皇帝は、手すりに両手をかけて、広場を見下ろした。かすれた声が、よく通った。
『今夜から、灯りを点けていいよ』
一拍おいて、広場が、わっと沸いた。塩の雪が、舞い上がった。
露台から戻ると、皇帝は、ロズリンに言った。
『本部の板を、出しな』
ロズリンが、硝子の板を机に置いた。皇帝は、その前に座った。
「本部。聞こえるかい」
『聞こえます』
「約束は、今日で、終わりだ」
板は、すぐに答えた。
『承知しました。帝国の取り分を、止めます。帝都の灯りの、四つに一つぶんです』
「昼に働けばいい。灯りは、四つに三つで足りる」
『一〇六番を孤独の大地へ運ぶ注文も、取り下げます』
「取り下げなくても、運ばないよ」
皇帝は、板から手を離した。それから、椅子の背にもたれて、長く息を吐いた。三百年、一度も破らなかった約束だった。
マーロウが、板の前に進み出た。
「本部。訊く」
『どうぞ』
「東の水で、何を作ってた。前は、答えなかったな」
『作り終えましたので、答えます』
板の声は、平らだった。
『刃です。三番目の刃を作りました。一番の、作り直した後の設計で』
部屋が、静かになった。
ミラベルが、マーロウの袖を、ぎゅっとつかんだ。
『燃料は、一〇六番の血です。…まだ、動いていません。一〇六番の血を、一滴、待っています』
ロズリンの筆が、紙の上で止まった。
「…一滴か」
マーロウが、言った。
ロズリンが、マーロウを見て言った。
『血がなければ、動かない。だから、あなたの血を、取りに来させる気です』
マーロウは、板に向き直った。
「本部。一滴で、足りるのか」
『はい。一滴で、足ります。一〇六番は、毎日、血を流しますので』
ミラベルが、マーロウの前に出た。
「あげない! 坊やの血は、一滴も、あげない!」
『あなたの妹です。一番』
板は、そう答えた。
『待ちます』
それきり、板は、黙った。
夕方、ウィラが、塔の露台で、皇帝の横に立っていた。
帝都の窓に、灯りが、点きはじめていた。外側の区から順に。ふた月前まで、毎晩そうだったように。
「施療所、止まった?」
『触れは出た。十日で、全部に届く』
ウィラは、灯りの増えていく街を見ていた。
「届いたら、海壁の街に帰って、父さんと母さんの石に、言う。…施療所が、止まったって」
『わたしの名前も、言っておきな』
皇帝は、言った。
『止めたやつ、としてじゃない。作ったやつ、としてね』
ウィラは、しばらく黙っていた。
「…言う。両方、言う」
皇帝は、何も答えなかった。黄色い目が、少しだけ、細くなった。
夜、宮殿の一室で、ミラベルは、眠らずに、マーロウの左手を握っていた。
金属の指と、肉の指で。傷のある手のひらを、包むように。
『坊やの血は、あたしのだもん』
「…知ってる」
『妹でも、あげない』
「知ってる」
ミラベルは、マーロウの手のひらを、自分の頬に押しあてた。
『…今日も、いた?』
「今日も、いた」
窓の外で、帝都の灯りが、夜通し消えなかった。
二年のうちの、百四日目だった。
第七章 了