海壁

第十章

冷たい手

挿絵:冷たい手

帝都を発って、六日目の昼だった。

船の窓から、共和国の畑が見えた。光る草の海。その東の列が、燃えていた。

『手だ』

ミラが、窓に金属の目を押しつけて言った。

『本部の、手。…十二。人を、つかんでる』

高さ八メートルの、錆びない金属の手首から先が、五本の指で蜘蛛のように歩いていた。畑の東の端に、本部の荷車が二台。手は、灰色の服の人をつかんでは、荷車の檻へ運んでいた。二百八十九名の、十二の家の者たちだった。

指先から、白い線が走った。光る草が、一列、燃え上がった。

「降ろせ!」

マーロウが叫ぶより先に、ミラベルは、船の腹の戸をこじ開けていた。

『朝の一滴で、足りる。…行ってくる』


畑は、ひどいありさまだった。

施療所の兵だった者たちが、腕を組んで列を作り、手の前に立ちふさがっていた。つかまれても、放り投げられても、また列に戻った。

空から、ラーナが、翼で急降下して、檻の格子に体当たりしていた。

ネルが、倒れた手の手首に跳びついて、工具で筋を探っていた。オーウェンが、その背中を、杖でかばっていた。

ティルダが、名前の札を束ねて、叫んでいた。

『マティアス・フェンウィック! クララ・ストラウド! …止まりなさい、と申しております!』

手は、止まらなかった。手には、名前がない。

アディが、小屋の前に立って、いちばん近い手を、まっすぐ見た。

「止まりなさい」

その手が、止まった。指一本、動かなくなった。

アディは、次の手を見た。

「止まりな…」

声が、かすれて、途切れた。アディは、喉を押さえて、膝をついた。ハンナが、その肩を抱えた。


ミラベルは、東の列にいた。

一本目の手の、手のひらの硝子の目を柄で割り、中の水の管を、指でつまんで引き抜いた。濡れていなければ、ほどけない。手は、崩れた。

二本目。三本目。檻の格子を、素手でむしり取った。中の人たちが、転がり出た。

「逃げて! 南! 坊やのほうへ!」

手が、ミラベルに向かって、白い線を四本、同時に撃った。ミラベルは、その間を抜けた。遅いよ、と言いながら。


マーロウは、南の小屋の前に着いたところだった。

手が一本、灰色の服の若い女を、指でつまみ上げていた。クララ・ストラウドだった。

マーロウが走り出す前に、白髪の男が、手の前に出ていた。

マティアス・フェンウィック。孤独の大地の大広間で、マーロウが名前を呼んだとき、いちばん最初に一歩、踏み出した男だった。今も、髪は真っ白で、痩せて、背が高い。灰色の目に、戻りはじめてから、少しずつ光が戻っていた。

マティアスは、手のひらの硝子の目に、自分の右手を当てた。

硝子の中の水が、白く曇った。曇りが、管を伝って、手首のほうへ広がった。霜だった。

手の指が、止まった。

クララが、指のあいだから、ずり落ちた。マーロウが、それを受けとめた。

「…何をした」

『冷やしました』

マティアスは、自分の右手を見下ろしていた。指先に、霜がついていた。

『冷たいのは、うちの家の手です。父も、祖父も、そう言っていました。夏でも、手が冷たい、と』

ロズリンが、息を切らして追いついてきた。硝子の板を、胸に抱えて。

「凍った水は、粒を、濡らしません。…だから、ほどけない」

抱えた板が、光った。

『フェンウィックの手を、確認しました。十二のうち、五』

東の列のほうから、ミラベルの声が、畑を越えて聞こえた。

「あと、七!」

マティアスは、板を見て、それからマーロウを見た。

『誰にも、言われていません。大広間で、あなたの声のほうへ、一歩出た日から、次は自分で出ると、決めておりました』


そのとき、小屋の裏で、悲鳴が上がった。

ティルダの声だった。

手が一本、小屋の屋根を剥がして、中から、誰かをつまみ上げていた。痩せた、背の高い若い女。施療所で短く刈られたままの髪。左の目の下に、小さなほくろ。

ティルダの娘、マリエだった。十二の家の者ではない。

『マリエ!』

ティルダが、札の束を放り出して、手の指に、しがみついた。指示書にないことを、ためらいもせずに。

マーロウは、鉤で、左の手のひらを突いた。

走った。

二年のうちの、百十一日目だった。

第十章 了