第十九章
眠りの手

小屋の並びから、一人の女が、歩いてきた。
灰色の服。黒い髪を、一本のゆるい三つ編みにして、背中に垂らしている。三十くらいの、人間の女だった。まぶたが重そうで、眠たげな目をしていた。灰色がかった緑の目だった。
眠たげな顔なのに、目だけが、まっすぐ前を見ていた。マーロウは、そこから目が離せなかった。
二百八十九名の一人だった。名前は、ロズリンの帳面にある。
女は、光る草の上を、あの大きな殻のほうへ、まっすぐ歩いていった。
「おい!」
ドラグが、走った。女の前に、回りこんだ。
「どこへ行く!」
女は、ドラグを見上げた。眠たげな目で。
『あの子、泣いてる』
「何?」
『鐘の音。…泣いてる赤ん坊みたいに、聞こえます』
ドラグは、女の顔と、大きな殻を、見比べた。
それから、女の前に立ったまま、後ろ向きに歩きはじめた。女を背中にかばうようにして。
「…おれが、前だ。あんたは、後ろ」
『はい』
大きな殻の脚が、地面をなぎ払った。ドラグが、それを肩で受けた。膝をついて、立ち上がった。
女は、その横をすり抜けて、殻の板に、両手を当てた。
小屋の屋根ほどもある、透き通った板。鐘の音で、細かく震えていた。
女は、目を閉じた。
そして、板の上で、手のひらを、ゆっくり動かした。赤ん坊の背中を、なでるように。
板の震えが、小さくなった。
隣の板も、その隣の板も。震えが、女の手から、波のように、殻じゅうへ広がって、消えていった。
鐘の音が、細くなった。
池ほどもある穴が、ゆっくり、閉じた。
大きな殻は、脚を折って、光る草の上に、腹をつけた。
動かなくなった。
眠ったのだった。
畑の光が、穴のほうへ引かれるのを、やめた。二万人の寝息が、また、揃いはじめた。
ロズリンの抱えた板が、光った。
『アッシュクロフトの手を、確認しました。十二のうち、七』
「あと、五!」
膝をついたまま、ミラベルが叫んだ。声は、かすれていた。
マーロウは、ミラベルのところへ走っていた。
走りながら、鉤で、左の手のひらを突いた。今日の二本目だった。
ミラベルの唇に、手のひらを当てた。二滴目だった。
ミラベルの金属の目が、白く光った。
『…行ってくる』
ミラベルは、眠っている殻の背中を、駆け上がった。名前のない剣を、両手で握って、真下へ突き立てた。
殻の奥の白い光に、剣が届いた。
大きな殻が、真ん中から、二つに割れた。中から、粒が、滝のようにこぼれた。
残っていた小さな殻たちが、鐘を鳴らすのをやめて、荒れ地のほうへ逃げていった。
マーロウは、同じ手のひらを、オスカの唇にも当てた。
オスカの目に、光が戻った。オスカは、座ったまま、開いた両手を、膝に置いた。
『…立った。列の、前に』
「見てた」
ミラには、一の粒を一つ、口に入れてやった。ミラは、それを噛んで、木の腕で、地面を押して、起き上がった。
ミラベルが、割れた殻の上から降りてきて、そのまま、仰向けに倒れた。唇が、乾いていた。
三滴目を、同じ手のひらから、落とした。
『…坊や、いる?』
「いる」
『オスカ、かっこよかった。つかめない手で』
「おまえの妹だからな」
ミラベルは、目を閉じたまま、笑った。
女は、眠った殻の横に、座りこんでいた。自分の両手を、見下ろして。
マーロウは、その前に、しゃがんだ。
「名前は」
『イルマ。イルマ・アッシュクロフト』
「何をした」
『うちの家では、泣く赤ん坊の背中に、手を当てると、眠るんです。母も、祖母も、そうでした』
イルマは、少しだけ、首をかしげた。
『誰にも、言われていません。鐘の音が、泣いてるように、聞こえたので』
一の墓の前で、議長が、杖に両手をかけて、畑を見ていた。
腕を組んで列を作っていた男たちが、まだ、そこに立っていた。施療所の兵だった者と、噛む兵だった者が、肩を並べて。
「…立っとったな」
議長が、つぶやいた。
「帝国で売られた者と、帝国の兵だった者が、同じ列で」
『わたしの兵じゃないよ』
ベアタが、言った。
『畑の兵だ』
ロズリンの抱えた板が、もう一度、光った。
誰も、何も、訊いていなかった。
『十二のうち、七』
平らな声だった。
『…一〇六番。取引を、しませんか』
二年のうちの、百十四日目の夜だった。
第十九章 了