第四章
初代

部屋には、椅子が一つしかなかった。
皇帝は、その椅子から降りようとして、よろけた。ヴァルターが支えようとすると、六本の指で、その手を払った。
『座ってな。立って聞く話じゃないよ』
そう言って、皇帝は自分で床に座った。みんな、つられて床に座った。ミラベルだけが、割れた窓の枠に腰かけて、外の暗い空を見張っていた。
兵が、エステルとウィラを連れて上がってきた。
皇帝は、エステルを手招きした。マーロウが灯りを差し出すと、皇帝はそれを受け取って、エステルの胸に戻した。
『貸してくれたのは、あんただね』
「…はい、陛下」
『暗いのが、嫌いなのにね』
エステルは、灯りを抱きしめて、うなずいた。皇帝は、その頭に、指の多い手を、そっと置いた。
「三百年も、生きるのか。ゴブリンは」
マーロウが訊いた。
『生まれは、人間だよ』
皇帝は、あっさり言った。
『二十五の年に、作り直された。水が抜けていく世界で、生き残れる体にね。耳が大きくなって、背が縮んで、指が増えた。…それから、三百二十年だ』
ロズリンが、帳面の上で、筆を止めた。
「作り直したのは」
『エリス・ケインという女さ』
ミラベルが、窓の枠から振り向いた。ドラグが、ゆっくり息を吐いた。
マーロウは、エリスの顔を思い出していた。硝子の箱から抱え上げられて、ずっと上のおばあさんだと名乗った女。
「…会ったことがある。最後の日に」
『そうかい』
皇帝は、濁っていないほうの目を、少しだけ細めた。
『じゃあ、あんたは、わたしの恩人の家の子だ。…その子を、わたしは、本部に売る約束をした』
部屋が、静かになった。
『剣を預かった日から、本部と約束をしてきた。本部は、帝国に粒をよこす。帝国は、本部の注文を聞く。三百年、一度も破らなかった。破らなかったから、帝国は、灯りの消えない国になった』
ウィラが、立ち上がった。
「ハロルド・ドーセット」
皇帝の黄色い目が、ウィラに動いた。
「帝国暦三四五年、夏。海壁の街の施療所。重さ、五十八。共和国行き。…あたしの、父さん」
ウィラの声は、震えていなかった。
「四年、戻らなかった。戻ってきて、この夏に死んだ。施療所を作ったのは、誰」
『わたしだよ』
皇帝は、目をそらさなかった。
『熱の者に瓶を飲ませて、変えて、共和国へ売る。本部行きの行があることも、知っていた。本部の注文で、代わりに粒をもらった。…決めたのは、わたしだ』
「なんで」
『数えたからさ。灯りの下で暮らす民の数と、運ばれていく者の数を。運ばれていく者のほうが、ずっと少なかった』
ウィラは、唇を噛んだ。
「その、少ないほうに、父さんがいたの」
『そうだ』
皇帝は、それ以上、何も足さなかった。謝りもしなかった。
『謝れば、わたしが、楽になる。だから、謝らない。…代わりに、止める』
皇帝は、ヴァルターを見た。
『残りの施療所、三十八。明日の朝、全部、止めよと触れを出す。瓶は日向に出す。変えた者の名前は、全部、書き出させる』
「…止めたって、父さんは、帰ってこない」
『帰ってこない。だから、ほかの子の父さんを、止めるんだよ』
ウィラは、何か言おうとして、言えなかった。
マーロウは、ウィラの頭に、手を置いた。十七度目だった。ウィラは、振り払わなかった。
「なんで、今なんだ」
マーロウが訊いた。
「三百年、守ってきた約束を、なんで今、考え直す」
皇帝は、割れた窓の外を見た。暗い帝都が、どこまでも広がっていた。
『本部の計算には、水を飲む者が入っていない。…わたしの民の半分は、水を飲むんだよ。わたしは、ゴブリンだから、生き残る側だけどね』
それから、東の空に目をやった。
『それと、あれだ』
「灯り呑みか」
『あれは、獣じゃない。昔の人間が、作ったものさ』
ロズリンが、顔を上げた。
『わたしが、まだ人間の子どもだったころ、空にあれを飛ばして、敵の街の灯りを呑ませる者たちがいた。呑ませたぶんで、あれは子を産む。…ふた月、帝都に来ているのは、子だけだよ』
「親は」
『まだ、来ていない』
皇帝は、セラフィナに顎を向けた。
『ロウの書庫に、あれの止め方を書いた本が、あるはずだ。昔の人間が、どうやって止めたのか。…明日、探しな』
セラフィナが、頭を下げた。ロズリンが、膝の上で、帳面を握りしめていた。
窓の枠で、ミラベルが、東の空を見たまま言った。
『坊や。星、まだ、ちゃんとある』
「知ってる。…見てろ」
二年のうちの、百二日目の夜が、更けていった。
第四章 了