第三章
いちばん高い窓

『中庭へ降ろせ! 腹を絞れ!』
ヴァルターの声で、船が、宮殿の中庭へ滑り降りた。腹の白い光が、細くなった。浮いていられるぎりぎりまで、粒の光を絞ったのだった。
塔を見上げると、いちばん高い窓が、もう見えなかった。
透きとおった布が、何十枚も、窓に重なって貼りついていた。重なった布の奥で、灯りが、ぼんやり白くにじんでいる。窓の外の狭い露台で、兵たちが長い竿を振り回して、布を剥がそうとしていた。一人、また一人と、布に包まれて倒れていく。
甲板で、エステルが、灯りを胸から離していた。
『これ、持っていって』
マーロウは、エステルを見下ろした。
『暗いの、やだ。…でも、陛下、いつも、あそこに、ひとりでいるの』
ウィラが、後ろから、エステルの肩を抱いた。
「歌う。約束したでしょ」
マーロウは、灯りを受け取った。
ミラベルが、手すりに足をかけていた。
『先、行ってる』
次の瞬間、ミラベルは、中庭を越えていた。宮殿の壁に跳びつき、金属の指を石の継ぎ目に突き立てて、塔を駆け上がっていく。登るというより、走っていた。壁の上を、まっすぐ上へ。
ドラグが、口を開けて、それを見ていた。
『…あれが、うちの一番だ』
「行くぞ」
塔の階段は、三百段あった。
マーロウは、駆け上がりながら、鉤で左の手のひらを突いた。流れた血を、腰の革の小袋に受けた。ネルが作り直した、底に細かい穴のある袋だった。
前を、ミラが跳ぶように上っていく。後ろから、ドラグと、ヴァルターと、セラフィナ。
二百段を過ぎたあたりで、上から、ミラベルの声が降ってきた。
『ちぎったら、増える! だから、ちぎらない!』
最後の段を上りきると、丸い部屋だった。
窓は割れていた。割れた窓から、ミラベルが、布を何枚も両腕に抱えて、飛びこんできたところだった。洗濯物の山のように。抱えた布が、腕の中でもがいていた。
床に、兵が四人倒れていた。みんな、顔に布が貼りついている。
部屋の真ん中に、石の椅子が一つ。
その上に、布が、小山のように重なっていた。いちばん奥で、灯りが、今にも消えそうに白く光っていた。
灯りを抱えた誰かが、その下にいる。
マーロウは、エステルの灯りを、高く掲げた。
小山が、ほどけた。
布が、一枚、また一枚と、椅子から剥がれて、宙を這ってきた。兵の顔からも剥がれた。窓の外の布も、いっせいに部屋へなだれこんできた。
『坊やに、あげる!』
ミラベルが、腕の中の山を、マーロウの上へ放り投げた。
何十枚もの布が、灯りごと、マーロウに覆いかぶさった。冷たい。重い。息ができない。
マーロウは、革の袋を、握りつぶした。
底の穴から、血が、霧になって噴き出した。
霧の触れた布が、白くなった。重なった布の、一枚目、二枚目、三枚目。白さが、布から布へ、次々と走った。固くなり、乾いて、ひび割れて、崩れた。
部屋じゅうに、白いかけらが舞った。
床に、粒が、雨のように降った。割れた窓から、外へもこぼれていった。暗い帝都の屋根に、からからと、粒の落ちる音がした。
マーロウは、もう一度、袋を握った。残っていた布が、白く崩れた。
『…四十一』
ミラが、金属の目で、床に落ちた粒を数えていた。
倒れていた兵たちが、咳きこみながら、起き上がった。
石の椅子の上に、布が一枚だけ、残っていた。
ミラベルが、それを、そっと指でつまんだ。
「これは、ちぎらない」
布を、端から、ゆっくりめくった。マーロウが、手のひらを当てた。布は白くなって、崩れた。
椅子の上に、小さな人が座っていた。
ゴブリンだった。
背は、腰の曲がったまま、ミラベルの腰にも届かない。肌は乾いた苔の色で、白い斑が浮いている。つるりとした頭に、白い毛がひとふさだけ残って、細く編んで垂らしてあった。大きな耳の先が、重そうに垂れていた。目は黄色で、瞳が縦に細い。左の目だけが、白く濁っていた。
冠は、なかった。灰色の、飾りのない毛織りの服。六本ずつ指のある両手で、灯りを抱えていた。
セラフィナが、膝をついた。
『陛下』
ヴァルターも、膝をついた。ドラグが、背筋を伸ばしたまま、固まっていた。
ミラベルが、目をぱちぱちさせた。
「…ちっちゃい」
マーロウは、何も言えなかった。
母さんを本部へ運ばせた国の、いちばん上にいる者の顔を、見に来た。憎むつもりで来た。
憎むと決めるには、目の前のゴブリンは、あまりに小さくて、あまりに年を取っていた。
ゴブリンは、二度、咳をした。それから、濁っていないほうの目で、マーロウを見上げた。
『来たね。一〇六番』
かすれていたが、よく通る声だった。
『灯りを一つ、ずっと点けておくのは、骨が折れるよ。…今夜は、助かった』
それから、黄色い目が、ミラベルの腰に動いた。名前のない剣が、そこに下がっていた。
『その剣。まだ、切れるかい』
「切れるよ。錆びない金属だって」
『そうかい』
ゴブリンは、灯りを膝に下ろした。
『三百年と少し前に、本部から、その剣を預かった皇帝がいる』
黄色い目が、少しだけ、笑った。
『初代だよ。…わたしだ』
二年のうちの、百二日目の夜だった。
第三章 了