海壁

第三十三章

今日も、いた

挿絵:今日も、いた

次の朝、マーロウは、左の人差し指を鉤で突いて、赤い一滴を、ミラベルの唇に落とした。

『…ことり』

「毎朝、言うな、それ」

『毎朝、鳴るんだもん』

ミラベルは、藁の上で、伸びをした。それから、帯のあいだの板切れを、確かめるように、指でなでた。


昼、小屋の中で、ロズリンが、帳面を広げた。

二百八十九名の名前。その横に、名字ごとの印。

『十二の家の名字の者が、二百八十九名の中に、全部の家から、少なくとも一人ずついます。ケインを除いて』

ロズリンは、指で、名前を一つずつ、押さえていった。

『ノール。アディ・ノール、ハンナ・ノール。グリム。オーウェン・グリム。ハーグレイヴ。エミル・ハーグレイヴ。ストラウド。クララ・ストラウド。海壁の街に、ルーカス・ストラウド。フェンウィック。マティアス・フェンウィック。ブラックウッド。ヨナス・ブラックウッド。ミルバーン。ベルタ・ミルバーン』

ロズリンは、帳面をめくった。

『クロスリー、ローウェル、アッシュクロフト、ラングレーも、います。…みなさん、まだ、変わったままです』

「戻るまで、どのくらいだ」

『一の輪の草の汁を、毎日。アディさんは、十五日で、声が届きました。長く変わっていた人ほど、遅いはずです』

「…十五日で、あれか」

ドラグが、腕を組んだ。

『なら、しばらくは、畑だな』

「畑だ」

マーロウは、言った。

「戻った者から、一人ずつ、自分で決めてもらう。塔の下へ行くかどうか。…決めるのは、そいつらだ」

ロズリンが、頷いた。帳面に、書いた。

十二の家の者、戻るのを待つ。決めるのは、本人。


午後、マーロウは、小屋の前に座って、紙に字を書いていた。

遅かった。一字ずつ、書いた。

ミラベルが、横から、覗きこんでいた。

『誰に書いてるの』

「ウィラだ」

『坊やが、自分で書くの』

「たまにはな」

紙には、こう書いてあった。

帝国暦三四九年、夏の初め。共和国の畑にて。

ウィラへ。

着いた。五日で着いた。みんな生きてる。

帝国の兵が来た。ミラベルが、百倍を背負った。アディが、止まれと言ったら、止まった。十二のうち、二になった。

しばらく、畑にいる。

ベルに、杭の数字、ちゃんと刻んどけって言っとけ。ミアに、全部書いとけって言っとけ。ハロルドに、草の汁、苦くても飲めって言っとけ。

待ってろ。

マーロウ・ケイン。

ミラベルが、紙を取って、下に書き足した。

ミラベル・グリム・ケイン。嬢ちゃん、坊やの字、下手でしょ。

その下に、ミラが、木の指で、ゆっくり、書いた。

ミラ・グリム。

マーロウは、紙を丸めて、ラーナの首の筒に入れた。

ラーナは、灰白色の翼を広げた。畑の上を一度まわって、北の空へ、小さくなっていった。


夕方、ロズリンの胸の硝子の板が、白く光った。

ロズリンが、黙って、マーロウに板を渡した。

一〇六番へ。

十二のうち、二。見込みが、上がりました。

マーロウは、板を見ていた。

「…急がせるか。また」

白い字が、すぐに浮かんだ。

いいえ。

十二の席に座るには、それぞれの家の者が、自分で決めなければなりません。

人が自分で決めることを、私は、計算できません。

計算できないと私が言うのは、三百四十年で、五度目です。

マーロウは、しばらく、その最後の一行を見ていた。

それから、板を、ロズリンに返した。

「…書いとけ」

『書きます』

ロズリンは、帳面に、写した。

本部、計算できないと言う。五度目。


夜、畑の真ん中の、一の墓の前に、マーロウは座っていた。

ミラが、少し離れたところで、墓の板を見ていた。一の遺言で、マーロウを見るのが仕事の子だった。今は、墓の板も、見ていた。

ミラベルが、マーロウの横に座った。

光る草が、夜風に揺れていた。二万人の寝息が、畑じゅうから、静かに聞こえていた。

『坊や』

「なんだ」

『次は、どこ』

「どこにも行かない。しばらくは」

『しばらく、って、どのくらい』

「十二人が、戻るまで」

ミラベルは、指を折った。一本、二本。

『あと、十』

「あと、十だ」

『じゃあ、あと十回ぶん、ここで、今日もいたって、言うのかな』

「十回じゃ足りない」

『じゃあ、いっぱい』

「いっぱいだ」

ミラベルは、マーロウの肩に、頭をのせた。

『…いっぱい、言おうね』

マーロウは、ミラベルの手を取った。金属の指と、肉の指を、一本ずつ、自分の指で包んだ。

「今日も、いた」

『いた』

一の墓の板が、草の光の中で、白く見えていた。

北の空のずっと向こうで、ベルは、今朝も杭の数字を刻んだはずだった。指の関節、一つ分。マーロウには、そう思えた。

二年のうちの、四十一日目だった。

第三十三章 了

第七巻 了

第七巻の終わり 人物相関図
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