第十章
三つ数えるまで

夕方、干し肉屋の女が、市場の台の向こうから、マーロウを呼んだ。
十年前から、同じ台で干し肉を売っている女だった。今日は、台の上に、何も並んでいなかった。娘のそばに、ずっといたのだろう。
女は、油紙の包みを、マーロウの胸に押しつけた。いちばん上等の干し肉だった。
『礼だよ。…受け取らないなんて、言わせないからね』
「受け取る」
『よし。それでいい』
女は、包みを渡した手を、そのままマーロウの腕に置いた。
去年の祭りの夜と、同じだった。
マーロウの横で、ミラベルが、すっと息を吸った。
それから、指を三本、立てた。
「…三つ数えるまで、いいよ」
女が、きょとんとした。
「いち。…に。…さん! はい、そこまで」
ミラベルは、女の手を、そっと持ち上げて、女の胸の前に返した。
女は、吹きだした。腹を抱えて、笑った。
『あんたの旦那、大変だねえ』
ミラベルが、固まった。
マーロウが、女に言った。
「…旦那じゃない」
『まだ?』
マーロウは、答えなかった。包みを抱えて、歩きだした。
ミラベルが、後ろで、足踏みをしていた。
『今の、聞いた? ねえ、坊や、今の、聞いた?』
「聞いてない」
ニムの店の二階で、ベルが、窓の横に立っていた。
ミラベルは、ベルの前に行って、腰に手を当てた。
「ベル。約束。痛いの、教える」
『はい』
ミラベルは、ベルの頬を、指でつまんだ。肉のほうの手で、軽く。ひねった。
ベルの眉が、少しだけ動いた。
『…ここが、変です』
「それが、痛い」
『昨日、壁に挟まれたときは、分かりませんでした』
「今のは」
『分かります』
ベルは、つままれた頬に、自分の手を当てた。
『ミラベルが、つねったからです』
ミラベルは、手を放した。放した手で、つまんだところを、そっと撫でた。
「…ごめん。痛くして」
『いいえ。教わりました』
ベルは、首を傾げた。
『痛いのは、嫌です。ですが、ミラベルに教わるのは、嫌ではありません。…これは、何ですか』
ミラベルは、答えられなかった。
代わりに、ベルの頭を、胸に抱えこんだ。
夜、ニムの店の一階で、ウィラが、机に紙を広げていた。
隣に、ミアが座っていた。二人で、一枚の紙に、交代で書いていた。
帝国暦三四九年、夏の初め。海壁の街にて。
ニコへ。
マーロウが帰ってきた。ミラベルが、腕を五本、海に投げた。ちがう、海に返した。水を一滴もこぼさなかった。
施療所が止まった。あたしの父さんが、白い服の男の前に立った。杖を捨てて、立った。
海は、まだある。
トンとドンに、よろしく。ご飯、ちゃんと食べて。筒の水、毎日一口ね。
ウィラ。ミア。
最後に、ウィラが、一行足した。
姉ちゃんは姉ちゃん。弟は弟。
ミアが、その横に、小さく足した。
姉ちゃん、二人いるからね。
ハロルドが、階段の途中に座って、その様子を見ていた。
マーロウは、その一段下に座った。
『あの子に、姉妹がおるとはな』
「弟もいる。都に」
『…わしの寝とったあいだに、家が、ずいぶん増えた』
ハロルドは、膝の上で、指を組んだ。
『父親が二人。姉妹と弟。…エマが見たら、桶を落とすな』
「殴るほうじゃなくてか」
『落とすほうだ。嬉しいときは、落とした』
夜更け、納屋の藁の上で、ミラベルは、ずっと天井を見ていた。
『旦那、だって』
「まだ言うか」
『言うよ。十年は言う』
ミラベルは、横を向いて、マーロウの顔を見た。
『ねえ。もう、考えてあるんでしょ。名字』
「ある」
『言う日、決めた?』
マーロウは、少し黙った。
「…決めた」
ミラベルが、跳ね起きた。
『いつ!』
「言わん」
『なんでぇ!』
「言ったら、その日まで、おまえが毎朝、何日って数えるだろ」
『数えるよ! 当たり前でしょ!』
「だから、言わん」
ミラベルは、藁の上で、転がった。一回、二回。三回目で、マーロウの胸の上に止まった。
『…ずるい』
「知ってる」
『大好き』
マーロウは、ミラベルの髪に、手を置いた。
しばらく、そのままにしていた。
「…おれもだ」
ミラベルは、マーロウの胸に顔を埋めて、黙った。
壁の中の低い音は、昨日より、小さかった。荷車が着くまで、あと六日だった。
第十章 了