第十八章
九回

朝の一滴を受けると、ミラベルは、藁の上で起き上がって、背筋を伸ばした。
『おはよう、坊や。ミラベル・グリム・ケインです』
「知ってる」
『毎朝言うの。慣れるまで』
「慣れたら、やめるのか」
『慣れても言う』
ミラベルは、板切れを帯に差して、納屋の戸を開けた。
朝の光の中で、壁のてっぺんが見えた。肘から先のない六本の腕。そのうち、北の端の一本の切り口が、昨日より、人の背丈ほど高くなっていた。
「伸びてるな」
『伸びてる。十日で一本、って言ってた』
ミラベルは、腕のほうを見て、べえ、と舌を出した。それから、マーロウの手を引いて、市場へ歩きだした。
市場では、ミラベルは、会う人ごとに名乗った。
パン屋に。樽屋に。干し肉屋の女に。水売りのゴブリンに。
ミラベル・グリム・ケインです。
干し肉屋の女は、三回目で、笑いながら耳を塞いだ。
『知ってるよ! 昨日の夜、街じゅうで聞いたよ!』
「知ってても、言うの」
女の娘が、母親の後ろから顔を出した。熱は、すっかり下がっていた。
『おばちゃん、名前、長いね』
「長いの。長いのが、いいの」
ミラベルは、しゃがんで、女の子の頭を撫でた。
昼、ニムの店の二階で、ウィラが、帳面を閉じた。
『ねえ、マーロウ』
「なんだ」
『ミラベルのこと、なんて呼べばいいの』
マーロウは、椀を置いた。
考えたことがなかった。
ウィラは、指を折って数えた。
『マーロウは、あたしの父さん。半分。ミラベルは、マーロウの、…奥さん』
「そうなるな」
『じゃあ、あたしの、何』
「…さあな」
ミラベルが、階段を上がってきた。手に、ニムの杏を三つ持っていた。
ウィラは、ミラベルを見た。ミラベルは、きょとんとして、ウィラを見た。
『嬢ちゃん、どうしたの』
「ミラベルのこと、なんて呼ぶか、決めてるの」
『なんでもいいよ』
「母さん、は違う。母さんは、丘にいるから」
ウィラの声は、静かだった。
「姉ちゃん、も違う。姉ちゃんは、あたしがやってるから。ミアとニコの」
ミラベルは、杏を一つ、ウィラの手にのせた。
『じゃあ、ミラベルでいいよ。今までどおり』
「…それで、いいの」
『いいの。名前で呼ばれるのが、いちばん好き。名前は、呼ばれるためにあるから』
ウィラは、杏を見て、それから、少しだけ笑った。
「じゃあ、ミラベル。…増えた名字のぶん、よろしく」
『よろしく、嬢ちゃん』
「嬢ちゃんは、やめないんだ」
『やめないよ。嬢ちゃんは、嬢ちゃんだもん』
午後、マーロウは、ルーカス・ストラウドを、壁の上へ連れていった。
ルーカスは、あの朝から、グロムの兵の詰め所で寝起きしていた。丁寧で、よく働いた。呼ばれれば、何でもした。呼ばれなければ、何もしなかった。
壁の上から、西の海が見えた。
「海のそばに、三か月いれば、戻る」
マーロウは、言った。
「前に、一って男が、そうやって戻った。ここは、海のそばだ」
ルーカスは、海を見ていた。
『…はい』
「あんたの家の名字、ストラウドの者が、南の畑に何人かいる。クララ・ストラウドって女もいた」
ルーカスが、一拍、止まった。
その一拍が、この前より、少しだけ長かった。
『…クララ』
ルーカスは、その名前を、自分の口で、もう一度言った。
それから、何も言わなかった。
夕方、ベルが、杭の数字を報せに来た。
『今朝も、指の関節、一つ分です。変わりません』
「腕は」
『伸び続けているのは、北の端の一本だけです。ほかの五本は、あの朝から止まっています。一本ずつ、十日で一本。本当です』
ベルは、壁のてっぺんを見上げた。
『本部は、嘘をつきません。ですから、十日たつと、一本、戻ります』
「…そうだな」
ミラベルが、マーロウの腕に、自分の腕を絡めた。
『あと九日あるなら、九日、ちゃんと暮らそ』
「暮らす?」
『うん。朝、一滴もらって。市場で名乗って。嬢ちゃんと杏食べて。夜、坊やの横で寝るの』
ミラベルは、指を折って数えた。
『それを、九回。…九回も、ある』
マーロウは、ミラベルの頭に、手を置いた。
西の海に、日が沈んでいった。
第十八章 了